一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

最近の拾い読みから(2) ― 『修復的司法とは何か―応報から関係修復へ』

2006-06-23 12:19:05 | Book Review
「修復的司法」ということばがあるそうです。
定義付けは、小生が語るより、そのまま引いた方がいいでしょう。
「被害者と加害者の直接対話などを通じて、両者の関係の『修復』を図る。近代刑事司法の限界や問題点を乗り越えるための試み」
なんだそうで、これは、従来の「犯罪観」「司法観」とは、異なったものから生まれた考え方のようです。

つまりは、
「刑事司法では、犯罪を国家が定めた法規範への侵害とみなし、国家を代表する検察官と被告人が裁判で対決する。」
と考えられていた(「応報的司法」)のに対して、
「犯罪を国家対個人でなく、加害者、被害者、地域社会の3者の関係でとらえ、3者が癒されることを目指すのが修復的司法だ」
ということです。

犯罪が、常に「国家秩序」への侵害とするなら、その運用次第によっては、「権力者」の恣意によって、どうにでもなってしまう虞れなきにしもあらず(そのための「縛り」が必要なのは、最近の「共謀罪」制定にも見られるとおり)。

また、「応報」が拡大する可能性もある(このメカニズムに関しては、別途考察したい。ただ、「応報的司法」ということばからも分るように、従来の考え方によれば、「処罰や抑止のために苦痛を与えること」を重視してきたことだけは考慮に入れておきたい)。

ましてや、いまだに「法は権に勝たず」という「非理法権天」意識が残っている現状においてをや(そう言えば「超法規的措置」なる政治的判断による行為がなされたこともありました)。

これに対して、「修復的司法」の考えには汲むべきものがある。
なぜなら、基本的に、
「犯罪を『規則への違反』ではなく、『人々や人間関係への侵害』とみなす」
から。
このことによって、客観的な基準の得にくい「倫理」の世界から、より客観性のある「社会科学」の世界に、法の分野とされてきたものを持ち出せるように思えます。

さて、このような「修復的司法」の考え方によって、「殺人」という犯罪行為をどう考えればいいでしょうか。

小生、まだ考えがまとまっていないので、このことに関しては、ちょっと考えさせていただきたい。
いずれにしても、「生者の傲慢」ということばが頭の中に点滅していることだけは言っておきましょう。

参考資料 ハワード・ゼア著、西村春夫/高橋則夫/細井洋子訳『修復的司法とは何か―応報から関係修復へ』(新泉社)