一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
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『昭和史発掘 5 ― 2.26事件1』を読む。

2005-07-13 14:49:30 | Book Review
1960年代に週刊誌連載の後、単行本化され、1970年代に文庫化されたものの新装版(新装版第5巻は、旧文庫第7巻の一部(「相沢事件」「軍閥の暗闘」)+旧文庫第8巻の一部(「相沢公判」)。

第5巻は、
「相沢事件」
「軍閥の暗闘」
「相沢公判」
の3編よりなる。

この巻で扱われるのは、副題にあるように「二・二六事件」の直接の前史である。
ただし、帯の「いよいよ本シリーズの真骨頂『二・二六』に突入」は、誤解を招く表現。まだ事件は始まっていない。「プロローグ」が始まり、主要な登場人物がほとんどすべて舞台に上った、というところ。

「相沢事件」「相沢公判」の2編が、一続きと見ていいだろう。
「相沢事件」とは、皇道派首領格の真崎甚三郎が、教育総監を罷免されたことに端を発する(教育総監とは、陸軍大臣・参謀総長と並ぶ、陸軍三長官の一つ。この時、新たに教育総監に就いたのが渡辺錠太郎で『二・二六事件』で殺害されることになる)。

この罷免を、陸軍省軍務局長の永田鉄山(統制派)による皇道派迫害と認識した、皇道派中の急進分子である相沢三郎中佐が、昭和10(1935)年8月12日、陸軍省軍務局長室で永田鉄山中将を殺害したのが「相沢事件」である。

この事件は、当然、軍法会議にかけられることになる。
皇道派青年将校(栗原安秀中尉など)や民間右翼(北一輝・西田税・村中孝次元中尉など)は、公開の軍法会議での「法廷闘争」を通じて、
「相沢供述を世間に知らせ、『昭和維新の精神』を宣伝する」
ことや、
「陸軍部内に向かっては統制派の『不正』を暴露する」
ことを狙いとした。

しかし、この戦術は、林銑十郎陸軍大臣の証言拒否(軍法会議法第235条の規定)によって、
「法廷闘争によって統制派にゆさぶりをかけようとする西田税、村中孝次、渋川善介、それに亀川哲也らの一派は大きな壁にぶつかったことになった。」
「裁判開始前、証人に出たら何でもしゃべる、と景気のいいことを村中あたりに云っていた真崎の態度も怪しくなった。というよりも、林の証言拒否を見習うような様子になってきたのである。」

「法廷闘争」戦術をとっていた「合法派」に対して、
(直接行動を主張する)「青年将校らの動きが不気味な活発さを帯びて」
きたのである。
いよいよ、このシリーズは「二・二六事件」に叙述が入っていく。

さて、本書でかなり明らかになった事実がある。
それは、憲兵資料を使っての当時の青年将校たちの動きが一つ。
資料によって松本が整理したところによれば、
「一部青年将校を体制側の観点から『皇道派』一色にしてしまうと、十分な理解ができず、誤った解釈が生じやすい。彼らの性格は相当に多岐だ。」
となる。
「相沢公判」に関して出てきた例で言えば、「裁判闘争=合法派」とそれに飽き足らない「直接行動派」。イデオローグであり、かつ「革命ブローカー」でもある西田税(北一輝に対しても同様であるが、財閥から情報費としてかなりの金銭が出ている)への態度の違いによる「慎重派」(西田との提携路線を採る)と「過激派」。
また、「北一輝の理念を国家社会主義ときめつけた平泉澄(きよし)らの影響を受けた青年将校」というグループもある、といった具合。

また、本書「軍閥の暗闘」での記述のように、皇道派将軍たちを、陸軍中央部から排除しようとする動きは、統制派だけではなく、当時の参謀総長・閑院宮―宮中筋からもあった、との指摘も重要であろう。
「二・二六事件」での、昭和天皇の怒りも、このような動きと無縁ではあるまい。

松本清張
『昭和史発掘 5』
文春文庫
定価:本体829円+税
ISBN4167697041


人間のストーリー/プロット変換機能について(8)

2005-07-13 00:19:49 | Essay
ここで、一旦まとめておきます。
そのためには、(1)でちょっと触れた、廣野由美子『批評理論入門』を借りるのが、一番手っ取り早い。
それに、本の紹介にもなるしね。

文藝評論の立場で言えば、「ユングによる補助線」と小生が述べたことは、「精神分析批評」"psychoanalytic criticism" の「ユング的解釈」になります。つまり、
「優れた文学作品とは、フロイト派の言うように個人の抑圧された欲望の現われではなく、文明によって抑圧された人類全体の欲望を明らかにしたもの」
なわけです。

また「エリアーデによる補助線」は、「ユング的解釈」とは地続きの「神話批評」。
「個人や歴史を超えた人間経験の原型を、文学作品のなかに探し当て分析しようとする批評」
です。

さて、前回は「具体例がないと、説得力がない」と述べましたが、この本で扱われたメアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』の例を借りて、若干説明しておきましょう (この本では〈プロット〉とは分けて、〈モチーフ〉という用語が使われている。小生述べているところでは〈構想〉に当たりましょうか)。

「神話や文学に繰り返し現われるモチーフには、たとえば創造、不滅、英雄、探求、楽園追放、闘争、追跡、復讐など、さまざまな原型がある。」
として、作品『フランケンシュタイン』は、
「『英雄(救済者、救助者)が、困難な任務を果たすために長い旅に出て、怪物と戦い、解けない謎を解き、越えがたい障害を越えて王国を救って、王女と結婚する』(Guerin, p.162) という英雄物語の原型と比較してみよう。『ヴィクター=勝利者』と名づけられた主人公は、人類を救済する英雄たるべく、不滅の生命を探求する旅に出る。彼は生命の謎という『解けない謎』を解く(一風斎註・死体の部分を集め、新たな生命を生みだしたこと)が、自ら造り出した怪物との闘争に敗北し、試練を乗り越えることができない。(中略)英雄の原型をパロディ化した物語として読むことができるのだろう。」
とする。

さて、既成の作品をこのような観点から分析できることは分ったが、それでは、実作の過程で、このようなモチーフは、意識的に使われるのであろうか、それとも……。

〈以下、続けられるか?〉



廣野由美子
『批評理論入門』
中公新書
定価:本体780円+税
ISBN4121017900