一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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「藩」意識から「国」意識へ

2006-05-10 00:24:32 | Essay
「藩」の大きなシンボルの一つは、「城」ではなかったのか。

今でも「藩」という領域が、無意識的に生きている、というのが、前回(5月9日)までのお話。

付け加えれば、「藩」領域程度でも、かなりの想像力を必要とします。
というのは、「藩」に属する人びと全てに会っているわけではないし(全員が顔見知りの存在ではない)、地理的にも全領域をくまなく知っているわけでもない。

現代で考えると、無理なくその共同体に属しているという「実感」を得られるのは、義務教育の「学区」程度の規模でしょうか。
江戸時代だと、おそらく、同じ神社の氏子である、村落共同体の範囲ということになるんでしょう。

そこに想像力と知識を働かせ、「実感」との折り合いを無理なくつけられるのが、どうやら「藩」の範囲だったようです。
だからこそ、現在でもこの領域が無意識的にしろ生きているのではないでしょうか。

これが150年近く前の話となると、人びとの頭に「くに」=「藩」という意識が強く刷り込まれていたのは、言うまでもないでしょう。
ですから「藩」意識を超えて「日本国」という領域を主に考えるために、国学や後期水戸学などが苦労して、理論武装を図ったわけです。

しかし、そのような理論武装が浸透したのも、一部の武士階層や豪農階層だけで、一般の庶民には縁遠いこと。
明治初年の太政官政府は「国民」創成(自らを「日本国」の「国民」だと意識させること)のために、いろいろな手を使った。

その中でも最も大きな手が、天皇を象徴とするというもの。

「国家」意識自体が、そもそも抽象度のかなり高いものですから、何らかの具体的なシンボルが必要だった。それは現代なら「国旗」や「国歌」でもいいんでしょうが、当時としては具体的な人物をシンボル化する、というのがもっとも理解させやすかったのでしょう。

まずは「天皇」というものが、どのような存在かを知らしめるため「人民告諭」や「御論書」なぞというものが発行されています。

例えば、1869(明治2)年に長崎で出された「御論書」は、
「この日本という御国には天照皇太神宮様から御継ぎ遊ばされた所の天子様と云う方がござって是が昔からちっとも変わった事のないこの日本国の御主人さまぢゃ!! 天子様と云うものは色々御難渋遊ばされながら今日まで御血統が絶えずどこまでも違いなき事ぢゃ。何と恐れ入った事ぢゃないか」
と述べています。