一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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「日本(ひのもと)」ということば

2006-05-21 11:00:07 | Essay
近代国家にとって、その外縁を定めることは、「領土」を確定させることですから、どの国でも重視してきました(近代国家は「国境」の確定をめぐって、武力紛争すら起こしてきた)。

しかし、翻って「歴史と伝統」を見ていくと、外縁はぼやけ、境界すら時代によって変動し、一定ではなかったことが分ります。

10世紀に作られた『延喜式』によれば、日本の端として認識されていたのは、東は「陸奥」西は「遠値嘉」南は「土佐」北は「佐渡」でした。
これが14世紀の鎌倉時代末になると、東は「アクル、津軽、ヘソ(エゾ)が嶋」西が「鬼界、高麗、硫黄嶋」南が「熊野御山」北が「佐渡嶋」とされ、室町時代には、東「日下」西「鎮西」南「熊野之道」北「佐土嶋」と認識されるのです。

ここで「日下」というのは「日本(ひのもと)」であり、まさしく太陽が出てくる方向を指すことば、つまり、「日本」は、一般に国名や国号として使われていたわけではなかったのです。

「東北北部から北海道にかけての地が『日本(ひのもと)』といわれ、その他の地域の人びともそのように呼んでいたことは明らかといってよい。事実、十六世紀後半の近江商人は、その全国的遍歴の範囲を示すさいに『東は日下(ひのもと)』としていたのであり、『日本国』の東の境は、まさしく『日本』だったのである。これは『日本』が自然現象、太陽の昇る東の方向を指す語であることのおのずからの結果であり、それが一国家の独占物となりえなかったことを、よく物語っている。」(網野善彦『日本論の視座』)

それでは、中世国家の内実はどうだったかと見れば、近代国家のような均質な空間ではありません。
網野説をやや変形すれば、(1)「和人」とアイヌの混在地域である〈東北北部・北海道南部の地域〉、(2)〈「沖縄」(南島)地域〉、(3)朝鮮半島南部・済州島・北九州などの〈倭冦地域〉、(4)南九州・奄美などの(隼人地域)など、複数の文化的「ボカシ地域」が存在したということになります。

従来の「日本文化」一元論(たとえ、周縁の文化存在は認めたとしても、それは劣った文化/遅れた文化として、積極的価値を認めない、あるいは、「正統的な」伝統の中には含めない)とは、異質な世界が見えてくる。

小生などは、中世のこの国は、東国の将軍が王権を持つ「領主制国家」と、西国の天皇(王家)が王権を持つ「権門国家」との、「二重国家」だと理解しているので、その周縁に「王権」とさまざまな結びつきを持つ地域があったと考えることに異論はありません。
むしろ、その結びつきのありようによって、政治史が動いてきたと理解する方が、実態に即しているじゃあないでしょうか。

ちなみに「竹島」問題も、この「ボカシ地域」を考慮に入れないと、おかしな結論を生み出すことになる。

参考資料 李孝徳『表象空間の近代―明治「日本」のメディア編制』(新曜社)