一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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現代に生きる音楽を求めて。

2006-05-28 11:55:27 | Art
Arnold Schoenberg
(1874 - 1951)

アーノルト・シェーンベルクが、十二音技法を発想した時に、弟子たちに、
「これによって、ドイツ音楽のヘゲモニーをあと100年間保証する法則を見つけた」
と言ったというのは有名な話。
それが1920年代のことですから、十二音技法という法則は、後により一層精緻な総音列主義(トータル・セリエスム)が生まれていますが、100年間ももたなかったわけです。

一方、世の中に流れている音楽は、ほとんどが19世紀以前のもので、ポップスと言えども、その流れを汲んでいるといっても過言ではありますまい。

しかし、こういった動きとは別の部分で、「前衛音楽」「現代音楽」というものが作られています。
ですから「前衛音楽」と称するものは、
「いわゆる演奏会レパートリーに定着した作品は皆無に近い。せいぜい時々思い出したように再演されてはまたも埋葬されるのが関の山であった、『歴史と公衆の審判』を文句なしにくぐることができた作品数が、第二次世界大戦後になると激減するのである。」(岡田暁生『西洋音楽史』)
岡田氏によれば「前衛音楽における公衆の不在」ということになるわけです。

ここには「制度」の問題もあるような気がする。
というのは、音楽教育体系が、既に19世紀に作られたものを踏襲しているから(アマチュア、プロフェッショナルを問わず)。

あなた、学校の音楽の時間に、ジョン・ケージやジョージ・クラムの音楽を聴いたことがありますか。
ピアノを習っている人なら、ツェルニー、バイエル、ブルグミューラーの練習曲以外のものを弾いたことがありますか。

つまり、19世紀音楽の「体系」と「制度」とが、未だに主流を占めていることも大きな問題なのでしょう。
おそらく「公衆」がそれを求めている、との声が出るでしょうが、そこいら辺は、鶏と卵の先後問題で、どちらが先かを探ってみても、生産的とはいえないでしょう。

以上のことを軽やかに乗り越える方法はないのか、と考えた場合、1つは他メディアとの融合という可能性がある。
詳しくは、また別の機会に述べることとして、今は、その1つの可能性をフィリップ・グラスが行なっている方向に見ることはできるでしょう。
つまりは、映画との相互作用による、新しい方向です(「公衆」の問題は、明らかにクリアされ、「啓蒙」という面でも有効)。

もう1つの方向に、「世界音楽」という概念が浮かんでいるのですが、それに関しては、また次回に。

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