一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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「軍楽」から西欧音楽導入が始まった。その3

2006-05-24 10:45:17 | Essay
五雲亭貞秀筆「横浜鈍宅(どんたく)之図」。
文久元年(1861)刊行。横浜駐留の外国軍楽隊の行進。

薩摩藩が採用したイギリス式の鼓笛隊は、大太鼓・小太鼓・笛の編成(「サツマ・バンド」と称す)。
横浜に駐屯していたイギリス陸軍軍楽長のフェントンに訓練を受けた。彼らのレパートリーは、明治維新後の明治3(1870)年には、儀礼曲『ゴッド・セイヴ・ザ・クィーン』、英第10連隊のテーマ『リンカンシャー・ポーチャー』、第42スコットランド高地連隊の『ガーブ・オヴ・ゴール』だったという。

一方、フランス式の兵制を採用した幕府では、慶応2(1866)年に来日したフランス軍事顧問団による伝習で、ラッパ伍長ギュディックからラッパ信号を習っていた。
翌年には、田辺良輔訳の『喇叭符号 全』が刊行され、幕府の他、長州藩でも使用された。

つまり、戊辰戦争では、
 (1) 幕府海軍のオランダ式ドラム信号(行進のリズム奏法を含む)
 (2) 薩摩陸軍の英国式鼓笛隊
 (3) 幕府陸軍・長州陸軍のフランス式ラッパ信号
という3種類の洋式音楽が使用されていたのである。

したがって『維新マーチ』として知られている笛と太鼓による行進曲は、薩摩藩軍楽隊のものと推定できる。
しかし、「日本第1号の軍歌」とも「日本のラ・マルセイエーズ」(鶴見俊輔)とも言われる『宮さん宮さん』のルーツとなると、定かではない。
  宮さん宮さんお馬の前に
  ヒラヒラするのは何じゃいな
  トコトンヤレ トンヤレナ
との、あの歌である。

一説によると、品川弥二郎作詞、大村益次郎作曲というが、作詞はともかくも、作曲の方はあやしい。むしろ、品川に歌詞を示された「なじみの芸者が節をつけた」との説にむしろ信憑性がある。

いずれにしても、先述したとおり、長州藩では仏式のラッパ信号は採用していたものの、鼓笛隊や軍楽隊は装備していなかったため、洋式の演奏が付けられたとは考えにくい。
『宮さん宮さん』は、やはり軍歌として兵士に歌われたもので、『維新マーチ』のような器楽による伴奏はなかったものと思われる。