一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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「戊辰戦争」は歴史の必然だったのか?

2006-05-04 06:28:24 | Essay
J. R. ブラック(John Reddie Black, 1827 - 80)

多かれ少なかれ、戦前までの歴史観は、明治維新を正しいものとするために、必要以上に徳川幕府の制度や、江戸時代の文化を貶める傾向にあった。
そのため、幕藩体制は完全に行き詰まっていた、との評価がほとんど。

代表的なものが、福沢諭吉の次の記述。
「王制一新の源因は人民の覇府を厭ふて王室を慕ふに由るに非ず、新を忘れて旧を思ふに非ず、百千年の間、忘却したる大義名分を俄に思出したるが為に非ず、唯当時幕府の政を改めんとするの人心に由て成たるものなり」(福沢『文明論之概略』)
これに『福翁自伝』の有名な台詞「私のために門閥制度は親の敵で御座る」を付け加えれば、 福沢の幕藩制度評価は分ったようなもの。

しかし、幕末から維新までの歴史を見ていた外国人にとっては、必ずしもそうとは言えない、との観察もあった。
幕末に来日したイギリス人ジャーナリストの J. R. ブラックは、遺著『ヤング・ジャパン』で、ほぼ次のように書いている。
「幕府のシステムは改革すればかなり使えるし、キーマンもいた。新構想(西周をブレインとして立てられた、大君による〈新政権構想〉)もすでに出ていた。だから、幕府が新しい政治を実施していたとしても、内戦の流血なしにできたであろう」(小島慶三『戊辰戦争から西南戦争へ』での紹介による)。

また、この路線以外にも、「諸藩連合政権」路線が選択肢としてはあった。

これは、
「公議政体論が現実化したものといえ、権力のあり方としては、天皇を形式的に頭部におき、諸侯会議が国政を決定するという形である。」(佐々木克『戊辰戦争』)
この路線によって、一時的に西周・慶喜の〈新政権構想〉=大君独裁路線が後退したとしても、力関係によっては、元の構想へと揺り戻すことも可能なのである。
「この中での慶喜の占める位置は、諸侯会議のリーダーとなって強い権限を持つか、あるいは一大名としての立場しか与えられないか、かなりの幅があり、政局の推移、力関係によって流動的」(佐々木、前掲書)
だったから。

けれども、現実の歴史は「王政復古」のクーデタを経て、戊辰戦争へと進んでいくのである。
ここには、以前紹介した雲井龍雄(くもい・たつお) の「討薩檄」にあるように、
「薩賊、多年譎詐(きっさ)万端、上(かみ)は天幕を暴蔑
(ぼうべつ)し、下(しも)は列侯を欺罔 ( ぎもう )し、内は百姓(ひゃくせい)の怨嗟を致し、外は万国に笑侮(しょうぶ)をとる。その罪、なんぞ問わざるを得んや。」
との批判の生まれる余地があるのだ。