一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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「軍楽」から西欧音楽導入が始まった。その4

2006-05-27 09:41:29 | Essay
明治16(1883)年に完成した鹿鳴館。
明治18(1885)年、ここで陸軍軍楽隊は、
ルルー作曲『抜刀隊』の演奏を行なった。

前回、戊辰戦争時の楽器/音楽の役割について述べた。
つまり、大きく分けて、その役割には、
  1. ラッパやドラムによる信号の伝達
  2. 鼓笛隊やドラム・リズムによる行進の伴奏
の2つがあったわけである。

この内、1.は日本陸軍の喇叭卒となり、日清戦争では「死んでも喇叭を口から離しませんでした」という木口小平の〈戦争美談〉を生むことになる。
けれども、喇叭卒は、専門教育を受けるわけではなく、所属部隊でいわば人から人へと奏法を伝えていた。

2. は、陸海軍とも、明治4(1871)年に軍楽隊が創立され、陸軍では専門教育機関としての戸山学校で軍楽教育が行なわれた(ちなみに、太平洋戦争中、戸山学校軍楽隊生徒として團伊玖磨と芥川也寸志とがいた)。

また、陸軍軍楽隊の初期の教育に当たった人物としては、明治17(1884)年第三次フランス軍事顧問団の一員として来日したシャルル・エドアール・ガブリエル・ルルー (Charles Edouard Gabriel Leroux) がいる。そのため、陸軍軍制がドイツ式に切り替えられた後も、軍楽隊のみはフランス式を採っていた。
「(ごく初期の軍楽隊員の)音楽レベルというのは非常に悲惨な状態でした。
ほとんどの隊員が譜面が読めず、音楽に関する知識も皆無ならば学ぼうとする意識の全くない者、そして多数の脱走者。ルルーは年齢が高くてやる気のない者は外し、試験をして成績の良かったものや、教育効果の出やすい20歳以下の兵を集めさせ、軍楽隊のコアにするための「教育軍楽隊」を編成してスパルタ教育を施しました。
音楽理論、ソルフェージュ、写譜、..... 兵の方も大変だったでしょうが教官側ももの凄く大変な教育だったようです。
こうしてルルーが在任した4年間の間に日本の軍楽隊は見違えるようになっていきます」(サイト「今日は何の日」による。適宜、原文を改行した)。