一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
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「歌枕」―地名はイメージを喚起する。

2006-05-15 08:10:02 | Essay
普通のものの名まえでも、「季寄せ(歳時記)」に載ったりして季語になると、イメージを引き寄せる力がぐっと増すようです。
俳句を嗜む人は、そのような新しく季語になるようなことばを探して苦労するのでしょう(イメージが確定した季語ばかり使っていると、今度は「月並み」になってしまうものね)。

それが地名となると、これは昔からあまり変ってないから(ただ、近頃は、町名変更や市町村合併などで、急激になくなる地名も出てきているみたい)、過去の記憶の蓄積で、イメージを引き起こす力は、ものの名まえよりも強いんじゃあないかしら。

5月11日の記事では「くに」のイメージということで、貶しことばばかり取り上げたので、今回は、良いイメージも挙げてみましょう。

まず頭に浮かんだのが、芭蕉の俳句。
行く春を近江の人と惜しみける
「挨拶の句」だと思うんですけど、それにしてもいい句です。
琵琶湖の水面が春から夏に変わっていき、その色を変えていくのが眼に見えるようです。
岸辺の葦も、緑の色を濃くし、気の早いよしきりなどは、もう声を挙げ始めているかもしれない。

これが、相模や武蔵だと、句になりそうもないでしょ。
何か、イメージが茫漠としていて、「行く春」や「惜しみけり」という一種アンニュイな気分にはそぐいそうもない。

ですから、武蔵国だと、その茫漠としたイメージを逆手にとって、
ゆく末は 空もひとつの武蔵野に 草の原よりいづる月影
と良経の歌(『新古今和歌集』)のようになるわけですな。
「空もひとつの」なんて巧いやね、座布団1枚やっとくれ、と言いたくなる。
冗談はともかくも、「武蔵野」という地名の背景には、『伊勢物語』(第十二段)や
「紫生ふときく野も、葦荻のみ高く生いて、馬にのりて弓持たる末見えぬまで、高く生いしげりて、中をわけゆくに」
との『更級日記』の記述などが、人びとの記憶として潜んでいる。
ですから、そのような記憶の堆積が、「武蔵野」ということばによって立ち上がってイメージを膨らます、というわけ。

「歌枕」の構造とでも言いましょうか。
より藝術寄りになると、近代の短歌とは異なり、リアルな描写ではなく、イメージのみで構成された幻想の世界に近くもなる(『新古今』の美学!)。

そうなると、良経のように、武蔵野なんかに一歩たりとも踏み入れたことがなくったって、イメージだけで、これだけの歌が詠めるんだよね(能因法師のエピソードを思い出しても良い)。

これが「歌枕」の功徳の一つでありました。