一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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『目的はパリ、目標はフランス軍』

2006-05-26 00:23:09 | Essay
タイトルのフレーズは、クラウゼヴィッツが『戦争論』で「目的」と「目標」の違いを説明するために使ったことば。

つまり「目的」は、「敵国首都パリ=敵中枢の占領」であり(それはまた、中央集権国家であれば、相手国を降伏させることをも意味する)、それを達成するための「目標」は、「前面にいる敵フランス軍の殲滅」ということである。

そして、一般的に「目的」を設定し達成するための方策を「戦略」と称し、「目標」に関する方策を「戦術」と称する。
つまり、
「戦略とは、見通し得る目的の達成のために一将帥にその処分を委任されたところの諸手段の実際的適応である」。
このモルトケの定義によれば、諸手段を達成させるための方策が「戦術」ということになるだろう。

もう1つだけ付け加えておけば、現代における国際関係の基本単位が「国家」であり、「戦争」とは、その「国家」間の「武力紛争」であるとすれば、
「1つの国家は国策の遂行のために戦争を遂行するのであり、戦争のために戦争を遂行するのではな」
く、また、
「軍事目的は政治目的によって支配されるべきものであり、政策は軍事的であることを要求しないという基本的条件に従うべきである。」(リデル・ハート)

日本帝国陸軍は、プロイセンに範を採り、「戦術」に関する研究方法は学んだものの、「戦略」については、何ら学習しなかったといってもいい(1つの原因は、お雇い教師であるメッケル少佐が、戦術家であっても戦略家ではなかったためもあるようだ)。

日清・日露の両戦争においては、政治が軍事をコントロールできたため、軍に戦略がないことが、かえって幸いした。
しかし、日露戦争後も、まともな「戦略」のないままに、参謀本部的な「戦術」重視の体質は変わらず、かえって、政治をも支配するようになると、その欠陥は露にならざるをえない。

東京裁判では、太平洋戦争につながる一連の戦争責任者を、「共同謀議」に基づくものとして裁こうとしたが、以上のような「戦略」がないまま、「戦術」自身の自己運動的に(なし崩し的に)戦争を拡大していったのだから、その裁判方針は破綻せざるを得なかったのも当然であろう(もう1つ、アメリカ合衆国が、昭和天皇を免責してしまったことも、大きな原因となっている。一連の戦争下、地位・権限ともに変わっていないのは、昭和天皇だけである)。

しかし、どうやら戦略下手で戦術好きなのは、明治時代に始まった話ではないようだ。
源義経、楠正成、真田幸村など、明治以前から人気のある武将は、ほとんどが戦術の天才である。戦闘においても、いわく「鵯越の逆落とし」「桶狭間の合戦」「真珠湾の奇襲攻撃」。

はてさて、それらの人気は別にして、現在、政治的な「戦略家」は、この国に存在するのだろうか。
「戦略家」には、ある意味で原理原則論が必要となる。戦術レベルでの変化に、そう簡単には動揺しない信念といってもいい。

どうも、単なる「既成事実への屈服」を現実主義と誤解している向きが多い現状では、「戦略家」を求めるのは無理なような気がするのだが……。

参考資料 クラウゼヴィッツ著、篠田英雄訳『戦争論』(全3冊)(岩波書店)
     リデル・ハート著、森沢亀鶴訳『戦略論-間接的アプローチ』(原書房)
     加藤朗、長尾雄一郎ほか『戦争-その展開と抑制』(勁草書房)