一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

「ノスタルジック」☆昭和30年代の記憶を探して。

2006-04-20 10:15:26 | Essay
東京タワーが完成した昭和30年代(昭和33年完工)、日本の経済規模は現在のパキスタン並だったという。
ちなみに、昭和34年当時の全国平均給与は29,000円也。

敗戦からまだ13年しか経っておらず、連合国軍の占領状態が終ってからだと(サンフランシスコ講和条約発効=日本の独立回復は昭和27(1952)年)、まだ6年しか経っていない。

そう考えてみると、まだまだ日本は貧しく、やっと戦前の状態に戻って(昭和31(1956)年、『経済白書』が「もはや戦後ではない」と記述した)、再スタートを切った頃の出来事ということになる。

以後、東京オリンピックを経て、経済成長路線を歩むことになるのだが、いわば、その原点となったのが「東京タワー」。
日本戦後史のマイル・ストーンとも言えよう。

映画『ALWAYS 三丁目の夕日』は、ノスタルジックにその時代を謳い上げて、まだ将来に希望があった頃の出来事として、鈴木一家の日常を描いている。
一方、現在、何とはなしに閉塞感が感じられ、将来が必ず良くなる、と断言できる能天気な人間は、まずいない。そうした閉塞感に対する、心理的な補償作用として、目が過去に向いたというわけだろう。

さて、その時代を朧げながらも記憶している小生としては、いささか複雑な心境にもなる。
それほど良い時代だったか、と問われれば、そう素直に肯定もできない。

台風が来れば、ゼロメートル地帯では、すぐに水が出、床下浸水などはまず常態、昭和34(1959)年の伊勢湾台風などでは、現在ではまず考えられないような5,000人近い死者を出している(死者4,697人、行方不明者401人、負傷者38,921人)。

生活文化的にも、まだ電化生活などは海の向こうの話、東京タワーが完成した当時でも、白黒TVの普及率が7.8%(電気冷蔵庫は2.8%)というのだから、TVセットの普及には、「皇太子ご成婚」と「東京オリンピック」が及ぼしたものが大きいのではないか(小生、前者は近所の家に見に行き、後者は自宅で見た記憶がある)。

お若い方はご存じないかもしれないが、街々に「バキュームカー」が走り出したのも、昭和26(1951)年から。
水洗式のトイレなどは、かなり普及が遅れていたのだ。

(続く)

「型」のまったくない藝術ってあるの?

2006-04-19 00:58:00 | Art
『沓手鳥孤城落月(ほととぎすこじょうのらくげつ)』は坪内逍遥(1859 - 1935)作の歌舞伎劇。
この出し物が、現在歌舞伎座「四月大歌舞伎」(六世中村歌右衛門五年祭) で演じられています。
淀君が「自尊心を独り異様に高ぶらせて、錯乱に陥」る場面は、明らかに、オペラにある〈狂乱の場〉の影響(たとえば、ドニゼッティ『ランメルモーアのルチア』における「ルチア狂乱の場」(ただし、こちらは恋愛感情によるものだが)。

オペラにおける〈狂乱の場〉も、伝統的な1つの「型」となっており、ヘンデルの『オルランド』には、珍しい男性による狂乱シーンも見られます。

それでは、世の東西を問わず、舞台芸術や音楽、そして文学などの藝術にはなぜ「型」があるのか(あるいは「あったのか」)。
というのが、本日のお題。

「叙情」には人によってばらつきがあったとしても、「型」には原則的にそのようなことはありません。
なぜなら、「型」には、長い時間を経ての、多くの人々の体験が凝縮されているからです。だから「型」のよって立つ淵源は、個人よりも共同体にあります。
例えば日本の場合、「和歌」を支えていたのは、女房を中心とした「宮廷」であり、「俳句」を支えていたのは、上層町人階級だった。

藝術における個性や新規性を重視する傾向も(最も高唱されたのは、ロマン主義の世紀である19世紀)、たかだか200~300年の歴史しかないけれど、「型」の古いものになると、ヨーロッパの場合で言えば、ギリシア時代にまで遡ることも可能です(演劇での「三一致の法則」なるものは、誤解があったにせよ、アリストテレスに始まるとされ、ラシーヌ、モリエールなどフランス古典劇の基本原則となった)。

音楽で言えば、古典派といわれる、機能和声とソナタ形式を柱とした様式ね。
それはそれで、「型」という共通認識があるから、一度なじんでしまえば、後は理解が早い。
「型」はある種の制約ではあるけれど、どのような制約があろうとも、新しいものを盛り込むことは不可能ではない。
しかし、新しく盛り込むものが大きくなり過ぎると、あるいは「型」を支えていた共同体が力を失うと、今度は、その「型」を崩そうとする動きも表れてくるのは、必然的なことでしょう。

このような「型」は、伝統芸能の場合、口伝として次世代へと引き継がれてきました。
ちょうど、本日夕刊の能楽評で、世阿弥作『頼政』の主人公の性根を伝えることばが、
 「演じすぎず、リアルにやらないで老将の気骨を見せよ」
と紹介されていました。

「型」のまったくない藝術は、考えられません。
すべての藝術は(あるいは表現行為は)「型」を模倣するところから出発するからです(現代藝術を言うならば、ミニマル音楽における、作曲家相互の影響関係を思い浮かべてもいい)。

その点で、「藝術における個性や新規性」をあまりにも重視するロマン主義的な発想は、もう一度検討されるべきでありましょう。

「文化資本」雑考

2006-04-18 11:13:38 | Essay
近年、英国では高級紙の大衆紙化が言われる。
2003年5月22日号の『タイムズ』紙。
「ヨーロッパでは音楽に対する嗜好は特定の文化階級に帰属することの表徴であり、そのような趣味は『文化資本』として家庭や学校を通じて身体化され、そのことがヨーロッパ社会における『階級』と『文化』の実定性をともに支えている。」(若林幹夫『距離と反復ークラシック音楽の生態学』)
という。

同論文からフランスでの音楽趣味の例を挙げれば、
「『平均率クラヴィーア曲集』やラヴェルの『左手のための協奏曲』、ある種の芸術志向のジャズやシャンソンの愛好者は高学歴の支配階級に多く見られる趣味であり、ガーシュインの『ラプソディ・イン・ブルー』やリストの『ハンガリー狂詩曲』、ジャック・ブレルやジルベール・ベコーのシャンソンは中間階級に、また『美しき青きドナウ』や『椿姫』『アルルの女』、”芸術的野心や欲望を完全になくしてしまったシャンソンは庶民階級に、それぞれ頻繁に嗜好されるという。」

しかも、この「文化資本」たるや、音楽に対する趣味にとどまらず、文学や美術などの芸術分野から、毎日購読する新聞にまで到る(新聞で言えば、英国での『タイムズ』『ガーディアン』などの高級紙と、『サン』『デイリー・メール』など大衆紙などの違い)。

そこには、「家庭で自然と身についた文化資本」と、「学校で努力して身につけた文化資本」とがあるということが、ピエール・ブルデュー(Pierre Bourdieu, 1930 - 2002) らの研究によって明らかになっている。

翻って、現在の日本を考えると、「格差社会」とは言われてきているものの、それほどはっきりした「文化資本」の差異は見受けられないのではないか(江戸時代には、武家層は能、上層町人は歌舞伎、下層町人は落語・講談といったように、差異があったが)。

というのは、日本の場合、「文明開化」による文化の断絶があり、趣味の多くが「学校で努力して身につけた文化資本」になったからだろう(この辺りの分析は、竹内洋『立志・苦学・出世―受験生の社会史』参照)。

さて、団塊の世代が社会の第一線を退き、新たに「生き甲斐探し」を始めた時、このような「文化資本」はどのような役割を果たすのであろうか。

蒸気軍艦第1号〈フルトン号〉のこと

2006-04-17 12:41:30 | Essay
US Steam Battery "Fulton" (1814)

世界最初の蒸気軍艦が、ロバート・フルトンの設計による〈フルトン号〉であることは確かなようだ。
しかし、その記述には、かなりの混乱が見受けられる。

というのは、この軍艦、名まえが2度ほど変わっているからだ。
まず、フルトンの当初の命名では〈フルトン1世号〉"Fulton the First" だったものが、アメリカ海軍の建造によって〈デモロゴス号〉"Demologos" (1814年進水)となった(艦種としては "Steam Battery")。
しかし、その完成を待たずに R. フルトンが亡くなり、その名誉を讃えて、完成時には〈フルトン号〉"Fulton" (1815年6月1日完成)と名づけられた。

これだけ名まえの変化があったから、それについての記述も混乱が出てくる。
外山三郎著『近代西欧海戦史』(原書房)に、
「蒸気推進が軍艦に用いられたのは同じくフルトンが1813年に建造した装甲浮砲台艦フルトン一号である。」
とあるのには、いくつかの誤りがあることは、既にお分かりであろう。

同様の誤りは、インタ―ネット上の記述にもあって、アメリカの某サイトには、
"The U.S.S. Fulton (38 tons) is the first warship powered by steam."
とあった。
これは、名まえの混乱が原因ではないと思うのだが、カッコ内の38トンというのはどこから来ているのだろうか?

ちなみに、信頼できるデータによれば、〈フルトン号〉の仕様は、

 排水量 2,475トン
 長さ  156フィート*(47.3メートル)
    56フィート(17.0メートル)
 エンジン馬力 120馬力
 速力  時速10.2キロメートル
 *167フィート(50.6メートル)との説もある。

である。

また、この艦は、1829年6月4日に爆発事故により破壊されてしまった。

したがって、マシュー・カルブレイズ・ペリーが、ニューヨークの海軍工廠で建造の監督をした〈フルトン号〉(1837年5月18日進水)は、まったく別の艦であることに注意されたい。

「ストーンウォール・ジャクソン」のこと

2006-04-16 10:43:38 | Book Review
CSS "Stonewall Jackson"

前回、明治新政府の手に入ってとりあえず「甲鉄」と呼ばれた「ストーンウォール」について触れた。
そこで、今回は、この「ストーンウォール」と紛らわしい「ストーンウォール・ジャクソン」のこと。

「ストーンウォール・ジャクソン」なることばは、元々は南北戦争における南軍の将軍トーマス・ジョナサン・ジャクソン(Thomas Jonathan Jackson, 1824 - 63) のあだ名。ブル・ランの戦いで勇名を馳せ、「(石壁のように)挫けることのない勇気」の持主ということで、この名を奉られたと言う。

さて、その将軍の名を持つ艦艇は、トン数は不明であるが、艦体の両脇にある外輪で推進する蒸気艦。1862年に南軍の河川防衛艦隊に編入された。
艦の種類としては、「コットン装甲衝角艦」"cotton-clad ram" ということになる。
"cotton-clad" というのは綿を詰めた梱を圧縮して、2枚のオーク厚板の間に入れて装甲とするもの。これでも榴弾の破片や、小銃弾ぐらいは防ぐことができるだろう。

衝角艦(ram) というのは、19世紀半ばに水上戦で最も有効であると考えられた「衝角突撃法」を行なうため、艦首水線下に、多くは鋳鉄製の衝角(これも "ram" という)を設置した艦。
この衝角を敵艦の横腹にぶつけて穴をあけ、撃沈させようというのが「衝角突撃法」。

1862年4月、ミシシッピ川の通航を制しようと起こった「ハンプトンローズの海戦」で、「ストーンウォール・ジャクソン」は北軍の砲艦「ヴァルナ」
"Varuna" を沈めたが、北軍艦隊に追いつめられ自焼した。

『燃えよ剣』の間違い探し。

2006-04-15 11:03:18 | Book Review
CSS "Stonewall"

小説に書かれた物事や出来事の間違いを探すほど野暮なことはない。
ストーリーと関係のないことに関しては、特にそうである。もし、筋書きやキャラクター設定に関係していたとしても、上手にだましてくれるのなら、それはそれでかまわないというのが小生の基本的立場。

しかし、歴史小説の場合、細かな事実の間違いが瑕疵となる場合もある。
それは全体のストーリーなどとは関わらず、著者の歴史観の問題ともなりうるからだ(司馬遼太郎『要塞』における乃木評価などが典型)。

特に、司馬作品に関しては、日露戦争をめぐって、事実認識や歴史観をめぐって意見はさまざまに分かれているのが現状ではないか(サイトにも、その点を扱ったものが多々ある)

司馬作品の場合、一般的に言えるのは、軍事技術的な誤りが多そうだということ。サイトを見たり、関係書を読んだりすると、一方的な考えを持っている「専門家」に取材したことが理由のようだ。

ここでは、そのような本格的な事実誤認の指摘ではなく、ちょっと気がついたことを書き付けておく。
というのも、以下述べる「甲鉄」艦に関しては、誤りやすい理由もあるからだ。

『燃えよ剣』「甲鉄艦」の章から。
「この艦は、アメリカの南北戦争の最中に北軍の注文で建造されたもの」
とあるが、これは、南軍の誤り。
ちなみに、アメリカ合衆国の艦艇に関するサイトから訳すと、
「CSS(Confederate States Ship:アメリカ連合国艦艇、すなわち南軍艦艇)ストーンウォール、1390トンの鉄製装甲衝角艦(ironclad ram) は、フランスのボルドーで連合国海軍のために建造された」
とある。
ここで、"ironclad" というのは、木製の船体に鉄製の装甲板を取り付けてあるということを知っておきたい(その点「木製だが甲鉄でつつんで」と司馬作品の誤解はない)。
その他、細かいことを言えば、「甲鉄艦」のルビに「ストーン・ウォール」とあるのは、「ストーンウォール」とワンワードにしたいところ。

さて、誤解しやすいというのは、南軍に「ストーンウォール・ジャクソン」"Stonewall Jackson" という艦があったこと。

この艦については、次回述べよう。

近代天皇制における権威と権力 その8

2006-04-14 09:30:33 | Essay
徳川斉昭(とくがわ・なりあき。慶喜の父。1800 - 60)

後期水戸学は、「天皇への忠は、すなわち将軍や藩主への忠でもある」とした。
いわゆる「尊王敬幕論」である。
「甚しいかな、名分の天下国家において、正しく且つ厳ならざるべからざるや。それなほ天地の易ふべからざるがごときか。天地ありて、然る後に君臣あり。君臣ありて、然る後に上下あり。上下ありて、然る後に礼儀措くところあり。苟しくも君臣の名、正しからずして、上下の分、厳ならざれば、すなはち尊卑は位を易へ、貴賤は所を失ひ、強は弱を凌ぎ、衆は寡を暴して、亡ぶること日なけん。」
と、藤田幽谷が『正名論』で述べているとおり。

しかし、逆に言えば、征夷大将軍は天皇からその地位を任命されているのであるから、幕府は朝廷を尊び、その権限を奪うことになってはならない、ということにもなる(藩主と臣下との関係も同様であるから、けっして下克上のようなことはあってはならない、と現在の幕藩体制擁護にもつながる論理である)。

その論理を前提にした上で、海外からの圧力を藩政改革へ転化しようとした、つまり「攘夷」を有効に行なうための藩政改革を行なおうとしたのが、会沢正志斎。
彼は、水戸藩主徳川斉昭の天保の藩政改革のブレーンとして活躍する。

「政府(藩庁)の旧弊を破り給ふ事」というスローガンの元、会沢や藤田東湖(幽谷の息子)ら改革派が登用され、「文武を励し言路を開き給ふ事」とその政策を実行していくこととなる。
その背後には、前述したように「攘夷論」に基づく、藩の海防体制確立という目的があった。

今日のことば(117) ― 陸羯南

2006-04-13 07:36:20 | Quotation
「一国政府の腐敗は常に軍人干政のことより起こる」
(『武臣干政論』)

陸羯南(くが・かつなん、1857 - 1907)
明治時代のジャーナリスト、評論家。陸奥弘前に津軽藩近侍茶道役坊主頭の子として生まれる。本名は実(みのる)。東奥義塾・宮城師範学校を経て、1876(明治9)年、司法省法学校に入学するが、1879(明治12)年、前述の原敬などとともにストライキを起こし、退学させられる。官吏となったが、大隈重信外相の条約改正案に反対して退官する。1889(明治22)年、新聞「日本」を創刊。社長兼主筆として論陣を張る。社には、福本日南・国分青崖・三宅雪嶺・小島一雄・安藤正純・長谷川如是閑・正岡子規・中村不折などを擁した。当初国民主義を唱えたが、日清戦争後は自由主義的・立憲主義的論調を打ちだした。おもな著作物に『近時政論考』『原政及国際論』などがある。
ちなみに、丸山眞男は、「当時、政治的対立関係にあるはずの藩閥政府と容易に妥協する民権論者が多いなか、羯南はナショナリズムとデモクラシーの綜合を意図し、豊かな世界性と進歩性を備え、その主張を実践として貫いた」として評価している。

上記引用は、1892(明治25)年、陸軍大将のまま、第2次伊藤内閣(1892 -96) で司法大臣(文官)をつとめるなど、専横が著しい長州軍閥の巨頭山県有朋を批判・攻撃したもの。

そのほかに、
「薩長人のほかは枢要の地位を与えずときめおる者、または土(佐)人のほかは幕僚に入れずとする者、もしくは肥人のほかは手下に置かずとする者」
と、薩長土肥による政界・官界の独占状況を指摘しているが、
「明治二十一年七月現在で、陸軍将官四十二名のうち、長州出身は十六名、薩摩は八名で合計すると五七パーセントを占め、同じく海軍将官二十名のうち長州は一名、薩摩は九名というぐあいで、薩長閥といっても長州の陸軍、薩摩の海軍という棲み分けがほぼ形成されていた」(秦郁彦『統帥権と帝国陸海軍の時代』平凡社)
という事実が、陸の指摘が正しいことを裏付けている。

また「長州の陸軍」は、山県から桂太郎・川上操六・児玉源太郎・寺内正毅と、後継者たちによって、引き継がれていくのである。

今日のことば(116) ― 原 敬

2006-04-12 10:06:25 | Quotation
「戊辰戦役は政見の異同のみ。当時、勝てば官軍、負くれば賊との俗謡あり、その真相を語るものなり。」
(「維新殉難五十年祭」祭文)

原敬(はら・けい/たかし、1856 - 1921)
政治家。南部(盛岡)藩家老加判役の家に生まれる。明治政府によって「賊軍」として遇された盛岡藩関係者として苦学した後、1876(明治9)年、司法省法学校に入学するが、1879(明治12)年、陸羯南・福本日南・国分青崖・加藤拓川などとともにストライキを起こし、退学させられる。同年、郵便報知新聞の政治記者となる。その後、官界入りして外務畑を歩み、外務次官などを歴任。1897(明治30)年、官界を退き、大阪毎日新聞社社長となり、1900(明治33)年、伊藤博文を中心に結成された立憲政友会に参加、幹事長となる。1902(明治35)年衆議院議員に初当選、以後連続当選8回。第1次・第2次西園寺内閣、第1次山本内閣の内務大臣を経て、1913(大正2)年、政友会第3代総裁となり、1918(大正7)年9月、日本最初の本格的政党内閣を組閣し、総理大臣となるが、1921(大正10)年東京駅頭で暗殺される。

上記「維新殉難五十年祭」は、1917(大正6)年9月、明治元年から50年目に当り、旧南部藩の戊辰戦争での犠牲者を追悼してのもの。

原は、その日記に、
「他にいかなる評あらんも知らざれども、余の観念を率直に告白したるなり」
と述べている。また、
「今日においてその祭典を営むは彼らの霊を慰むるのみならず、また風教の一端ともならんか」
とも。

戊辰戦争での盛岡藩の戦死者は112人(奥羽越列藩同盟軍全体で6,089人)。
しかし、それらの戦死者は「賊軍」として扱われ、明治政府により、東北地方は「白河以北一山百文」と侮蔑のことばを投げかけられ、近代化の波からも取り残された。

原敬は、そのことばから号を採り、「一山」または「逸山」と称した。

参考資料 尾崎竹四郎『東北の明治維新ー痛恨の歴史』(サイマル出版会)

愛すべき木彫――米原雲海『仙丹』

2006-04-11 10:50:00 | Art
米原雲海『仙丹』
1910 (明治43) 年制作。 木・34.0×11.5×15.3cm
国立近代美術館蔵

美術品を見て所有したいと思うことは、小生、めったにないのだが、この作品は、そのような気持ちにさせる。

まずは、そのサイズ。
高さが34cmと、手頃な大きさ。手に取って愛でるには、ちょうどいい。
飾り然と、ケースに収めておくのではなく、日頃から適宜手にすることができるというのが、小生好むところ。そのような意味では、茶碗と似たところがある。

次に、その表情の愛らしいこと。
この写真でははっきりしないが、西欧彫刻の彫りの深さとは異なり、まるで浮き彫りのような目鼻立ち。
そして、柔らかなS字を描いた身体付き。
女性というよりは少女の像であろう。
タイトルからすれば、仙人に仕える婢女(はしため)らしく、身に一点の装飾品も着けていないのがかえって好ましい。

ちなみに、作者の米原雲海(よねはら・うんかい、1869~1925)は、高村光雲(光太郎の父親)の「右腕」と呼ばれた高弟。
島根県立美術館蔵の『稚児天神像』も木彫で、少年時代の菅原道真像。
どうも雲海の作品で、小生好みのものは、このような少年少女像であるようだ(善光寺にある光雲との合作『阿吽仁王像』などは、あまり好ましくない)。