一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

今日のことば(120) ―久野収

2006-04-30 11:59:43 | Quotation
「出来得るかぎり無暴力であって、しかも徹底的な不服従の態度、出来得るかぎり非挑発的であって、しかも断固たる非強力の組織、これのみが、平和の論理のとるところをやむなくされる唯一の血路である、といわなければならない。人人は、普通このような態度、このような組織を通じて、自己の目的を実現する運動を、《受動的抵抗の運動》Movement of Passive Resistanceと呼んでいるが、平和の論理の積極的な第一歩は、戦争反対の目的のために、この運動を果敢に実行する信念と組織とエネルギーの如何にかかっている。」 
(久野収「平和の論理と戦争の論理」)

久野収(くの・おさむ、1910 - 1999)
哲学者。1934年京都大学文学部哲学科卒業。日本で初めての人民戦線運動を組織し、1937(昭和12)年、治安維持法違反で検挙される。戦後は昭和高商、京都大、関西学院大、神戸大、学習院大などで、論理学・哲学を教え、平和問題懇話会、憲法問題研究会、ベ平連などで指導的役割を果たした。大阪・堺市の出身であることから、2004年、旧蔵書約2,000冊は大阪府立中央図書館に寄贈された。

〈テロリズム〉の定義は何であろうか?

アメリカ合衆国憲法修正第2には、
「規律ある民兵は自由国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵害してはならない」
と「武装の権利」を人びとに認めている(この項目が、アメリカを〈武器社会〉とし、凶悪犯罪の温床ともなっている)。

その武装権の基本的考えは、
「自己および地域社会の生命や財産を守る市民の権利を国家に譲り渡さない」
ということであると同時に
[国家への異議申し立て能力を確保する」
という側面をも持っている。
であるから、市民は、
「政府が圧政に転じたならば、いつでも自己の武器を持ってそれから身を守り、闘い、倒す自由=権利」
を持っているのである。

翻って、現在のイラク国民を考えた場合、アメリカ合衆国憲法が普遍的な人民の権利を示しているとすれば、彼らにも「武装の権利」があるのは当然ということになる。
したがって、彼らには「政府が圧政に転じたならば、いつでも自己の武器を持ってそれから身を守り、闘い、倒す自由=権利」があり、かつ、どのような形にしろ〈侵略者〉をも武器で撃退する権利がありはしないか。
フセイン政権を武器で倒すことは認めても、イラク国民にとって「〈圧政〉を敷く〈侵略者〉」としてしか見えない勢力を武器を倒すことは認めないというのは、ダブル・スタンダードではないのか?

それをも〈テロリズム〉と呼ぶことができるのか?

倫理的/原則的には、久野の述べるように、
「戦争を挑発する勢力が、組織と強制と暴力によって行動するのに対し、平和を守る勢力が、それと同じ仕方で対抗し、相手の挑発に答えて、積極的に戦うとすれば、平和の論理は、原理的には、自らの論理を放棄し、相手の論理に屈服しているのである。」
ということであろうが、現在のイラクにおける〈テロリズム〉を、まだ生きていたとすれば、久野はどのように考えていたのであろうか。

*ちなみに「ハーグ陸戦条約付属書〈陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則〉」の「第一款 交戦者 第一章 交戦者の資格」によれば、以下の4条件を満たした場合、民兵・義勇兵にも条項が適用されることになる(いわゆる「ゲリラ」に適用されない、とするのは誤り)。
 1. 部下の責任を負う指揮官が存在すること
 2. 遠方から識別可能な固有の徽章を着用していること
 3. 公然と兵器を携帯していること
 4. 戦争法規を遵守していること