一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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神田明神と「将門様」

2006-04-29 13:53:21 | Essay
現在の神田明神

明治初期の神田明神を騒がせたのは、祭神の一つである平将門を、別殿に追い払ったという事件である。

明治6(1873)年、神社側は、朝敵が本社の祭神であることを明治政府に憚り、平将門を別殿に移し、その代わりに少彦名命の分霊を迎え入れたい、との願書を提出した。翌明治7(1874)年、その許可が与えられたが、納まらないのは188か町にも及ぶ氏子たち。何しろ、永い間「将門様」と言って崇め奉っていたのである。それが、どこの誰だか知らないような神様を急に迎え入れるなんてことは、神主たちの新政府へのへつらいとしか考えられなかった。
そのため、本社には、さい銭がろくに投ぜられないの対し、本社右奥に新造することになった将門社には、続々と醵金が集まるという始末。将門に対する信仰は、その後も続き、明治17(1884)年の神田祭りが台風で中断されたことさえ、「将門様のたたり」として噂に上った。

新聞紙上にも、
祭神から追い払われた将門様は大の御立腹。『おのれ神主めら、我が三百年鎮守の旧恩を忘れ、朝敵ゆえに神殿に登らすべからず、などと言いて末社に追い払いたるこそ奇怪なれ』と言って、祭りを待ち受けていた将門様。『時こそ来れり』とばかりに、日本全国よりあまたの雨師風伯を集め、八百八町を暴れまわって、折角のお祭りをメチャメチャになさった
などという記事が掲載されるくらいだった。

明治東京人は、本殿の祭神を表面上は敬いながらも、実質は将門社への信仰を中心にして、神田祭りの伝統を保っていったのである(ただし、祭りも近代化の進展には勝てず、明治29(1896)年以降は山車が引かれなくなった。というのは、町々に電線が張りめぐらされて、背の高い山車の通行が不可能になったため)。

このような将門信仰は、江戸時代から盛んなものであった。

*この原稿は『百年前の東京絵図(フォーカス)―21世紀への遺産』(小学館文庫) に書いたものの再録であることを、一言お断わりしておきます。