徳川慶喜の新政権構想で、天皇の地位は「機関説」的なものであった(西周の『議題腹稿』)。
しかも、実際の明治憲法下の「統治権・国務大権・皇室大権・統帥権」を総覧するという形式よりも、権力も権威も低いものと想定していた。
かかる意味では、江戸幕府における
「天皇なる存在は、武家政権の不可欠の補完物」(今谷明『武家と天皇―王権をめぐる相剋』)
と、ほとんど変わりがない。
それでは、慶喜が教育的影響を受けた後期水戸学において、天皇の地位とはどのようなものだったのであろうか。
ここでは、尊王攘夷論(「尊王攘夷」ということば自体は、藤田東湖による)のバイブルと称せられた『新論』(1825年稿)に表れた会沢正志斎(1781 - 1863)の意見をのぞいてみよう(会沢は、1858年以後、開国を受け入れることを主張、藩内の尊王攘夷派とは距離を置くことになるが)。
そもそも日本は、という規定から『新論』は開始される。
「尊王」論の根本であり「国体」論であるが、これは会沢のオリジナルというわけではない。
そこにはまず、山崎闇斎の垂加神道思想が働いている。
闇斎によれば、
(1)百王一姓(万世一系)の天皇によるカリスマ的統治正統性
(2)日本精神の独自性、普遍性
(3)皇国優越論的思想
が、後期水戸学に流れ込んだとでも言うべきか(当然、垂加神道と共通する、国学的な「国体」観も流れこんでいる)。
しかも、実際の明治憲法下の「統治権・国務大権・皇室大権・統帥権」を総覧するという形式よりも、権力も権威も低いものと想定していた。
かかる意味では、江戸幕府における
「天皇なる存在は、武家政権の不可欠の補完物」(今谷明『武家と天皇―王権をめぐる相剋』)
と、ほとんど変わりがない。
それでは、慶喜が教育的影響を受けた後期水戸学において、天皇の地位とはどのようなものだったのであろうか。
ここでは、尊王攘夷論(「尊王攘夷」ということば自体は、藤田東湖による)のバイブルと称せられた『新論』(1825年稿)に表れた会沢正志斎(1781 - 1863)の意見をのぞいてみよう(会沢は、1858年以後、開国を受け入れることを主張、藩内の尊王攘夷派とは距離を置くことになるが)。
そもそも日本は、という規定から『新論』は開始される。
「神州(=日本)は太陽の出づる所、元気の始まる所にして、天之日嗣(あまのひつぎ)、世(よ)宸極(しんきょく)を御(ぎょ)し、終古易(かわ)らず、固より大地の元首にして、万国の綱紀なり。誠によろしく宇内(うだい)に照臨し、皇化のおよぶ所、遠爾(えんじ)あることなかるべし。」つまり、
「日本は太陽神の子孫(=天皇)の永遠に統治するところであり、世界の中心である。と同時に、その秩序原理は世界全体を覆い尽くすべきである」(三谷博『明治維新とナショナリズム』)と主張する。
「尊王」論の根本であり「国体」論であるが、これは会沢のオリジナルというわけではない。
そこにはまず、山崎闇斎の垂加神道思想が働いている。
闇斎によれば、
「天照大神が皇孫に対し日本を統治することを命じ、その神勅によって、皇孫である天皇が、日本を統治するようになった。このような事実が神道の根本である。と闇斎は『大和小学』の中で主張している。その意味では、天照大神が皇孫に日本を統治するよう命じ、その結果天皇が国家を統治するあり方が、闇斎のいう神道の内実と解釈してよかろう。」(安蘇谷正彦『神道思想の形成』)垂加神道における、
(1)百王一姓(万世一系)の天皇によるカリスマ的統治正統性
(2)日本精神の独自性、普遍性
(3)皇国優越論的思想
が、後期水戸学に流れ込んだとでも言うべきか(当然、垂加神道と共通する、国学的な「国体」観も流れこんでいる)。