一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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今日のことば(116) ― 原 敬

2006-04-12 10:06:25 | Quotation
「戊辰戦役は政見の異同のみ。当時、勝てば官軍、負くれば賊との俗謡あり、その真相を語るものなり。」
(「維新殉難五十年祭」祭文)

原敬(はら・けい/たかし、1856 - 1921)
政治家。南部(盛岡)藩家老加判役の家に生まれる。明治政府によって「賊軍」として遇された盛岡藩関係者として苦学した後、1876(明治9)年、司法省法学校に入学するが、1879(明治12)年、陸羯南・福本日南・国分青崖・加藤拓川などとともにストライキを起こし、退学させられる。同年、郵便報知新聞の政治記者となる。その後、官界入りして外務畑を歩み、外務次官などを歴任。1897(明治30)年、官界を退き、大阪毎日新聞社社長となり、1900(明治33)年、伊藤博文を中心に結成された立憲政友会に参加、幹事長となる。1902(明治35)年衆議院議員に初当選、以後連続当選8回。第1次・第2次西園寺内閣、第1次山本内閣の内務大臣を経て、1913(大正2)年、政友会第3代総裁となり、1918(大正7)年9月、日本最初の本格的政党内閣を組閣し、総理大臣となるが、1921(大正10)年東京駅頭で暗殺される。

上記「維新殉難五十年祭」は、1917(大正6)年9月、明治元年から50年目に当り、旧南部藩の戊辰戦争での犠牲者を追悼してのもの。

原は、その日記に、
「他にいかなる評あらんも知らざれども、余の観念を率直に告白したるなり」
と述べている。また、
「今日においてその祭典を営むは彼らの霊を慰むるのみならず、また風教の一端ともならんか」
とも。

戊辰戦争での盛岡藩の戦死者は112人(奥羽越列藩同盟軍全体で6,089人)。
しかし、それらの戦死者は「賊軍」として扱われ、明治政府により、東北地方は「白河以北一山百文」と侮蔑のことばを投げかけられ、近代化の波からも取り残された。

原敬は、そのことばから号を採り、「一山」または「逸山」と称した。

参考資料 尾崎竹四郎『東北の明治維新ー痛恨の歴史』(サイマル出版会)