一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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人物を読む(6)―雲井龍雄(1844 - 70)

2007-05-28 08:35:22 | Person
奥羽越列藩同盟でも有力な米沢には、雲井龍雄(くもい・たつお。本名は小島守善(こじま もりよし)) という藩士がいた。

雲井は、1865(慶応1)年江戸詰となり安井息軒に学び、1867(慶応3)年に京に上り、倒幕派と交わるが、薩摩の戦略を批判したため危険になり、米沢に戻った。

奥羽の地に戦乱が及ぶと、奥羽越列藩同盟各藩の共通認識として、これは薩摩の私戦である、という声が高まった。確かに、戊辰戦争には、薩摩・長州藩の幕府からの権力奪取という面がある。
その面が、維新後にも現われ、西郷隆盛などの絶望を生むことにもなる。
「草創の始に立ちながら、家臣を飾り、衣服を文(かざ)り、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷也。今と成りては、戊辰の義戦も偏へに私を営みたる姿に成り行き、天下に対し戦死者に対して面目無きぞとて、頻りに涙を催」
したのは西郷である。

雲井は、その文才を広く認められていたため、薩摩を非難する「討薩檄」を書く。
「討薩檄」に曰く、
「薩賊、多年譎詐(きっさ)万端、上(かみ)は天幕を暴蔑(ぼうべつ)し、下(しも)は列侯を欺罔 ( ぎもう )し、内は百姓(ひゃくせい)の怨嗟を致し、外は万国に笑侮(しょうぶ)をとる。その罪、なんぞ問わざるを得んや。」

この檄文は、奥羽越列藩同盟各藩で広く読まれ、越後の河井継之助や会津の佐川官兵衛など将兵の士気を高めたといわれる。

維新後、雲井はその才を新政府に買われ、多くの意見書を提出するが、遂に取り入れられることなく、逆に迫害を受けることになる。
雲井は、新政府への不満分子を糾合、行動を起こそうとするが、内乱を企んだとして梟首され、その遺骸は小塚原に晒された。
享年27。辞世の詩は「死して死を畏れず、生きて生を偸(ぬす)まず…」であった。