一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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日本の「覇道」路線の開始点

2007-05-04 07:11:08 | Essay
「今や朝命を奉じ、攘夷の議定まれり。然してこの議もまた、草莽激論輩の鬱勃より生じて、上(の)者、これを説解し、その可否を弁ずること能はず。一時苟息(こうそく)を以て御採用なりしか、或いは形勢を弁ぜずして定まりしか。上下一致の勢を見ざる時は、これまた良全の事にあらず。今幸ひに、彼兵力を以て我邦を圧せんとす。この好機会失ふべからず。一敗地に塗(まみ)らば、数十年、或いは数百年の後、雄を天下に震ふべき国とならん」(文久2年3月16日の勝海舟の日記より)
つまり、
「幕府の弊は一にかかって不決断と姑息になる。確信がないから方針も定まらない。『今幸ひに』イギリスは兵力でわが国を威圧しようとしている。絶好の機会である。戦端を開こうではないか。一敗地に塗れるであろう。それでいいのだ。必ずや近い将来、わが国が世界を震撼させられる国家に生まれ変るための転機になるであろう」(野口武彦『江戸は燃えているか』)
というのです。

この勝海舟の開戦論の横に並べるべきなのは、林櫻園の次のような意見です。
「我国昇平久しく、軍備廃頽し、且軍器の利鈍、彼我等比に非ず、戦はば敗を取るは必せり、然れども上下心力を一にしてひ、百敗挫けず、防禦の術を尽さば、国を挙て彼に取らるるが如きは、決して無之の事なり、彼皆海路遼遠、地理に熟せざるの客兵なり、且何を以て巨大の軍費を支へん、遠からずして、彼より和を講ずるは、明々白々の勢いなり、幸いにして、一度彼が兵鋒を頓挫するを得ば、我が国威は、雷霆の如く欧州に震ふべし、果して然らば、国を開くも鎖すも、我望む儘なるべし」(木村弦雄『林櫻園先生伝』)
これも解説を引けば、
「第一に櫻園は、わが国は神国であり異狄を近づけると国土が汚れるから攘夷するとうのではない。水戸老公のように、わが国は物産ゆたかで交易は有害無益だから鎖国を守るというのでもない。開国か鎖国かなどという問題の立てかたは彼には存在しない。何が問題なのか。日本人が独立自尊の民族たりうるかどうかだけが、彼にとっての問題なのである」(渡辺京二『神風連とその時代』)
海舟の開戦論に、どうしてもリアル・ポリティクスめいた権謀術数が感じられるの対して、こちらは一種の道義的開戦論とでも言えるでしょう。

同様の道義的開戦論は、林と同じ熊本出身の横井小楠にも見られるところです(面白いことに、林と横井は、一時かなり接近したことがある)。
念のために、横井にも触れれば、
「小楠は、ペリーに応接するに際して、武の国つまり武士国家という要素が全面に出ては困る、あくまで文優位の国つまり儒教的原理に立つ国として応接せねばならぬと言っているのである。相手が乱暴なふるまいに及ぶのを抑えるために武力は必要だし、それも強大であることが必要だが、それはあくまで文に従属する武、すなわち文の方の原理で決まってくる道義性にもとづいて発動される武でなければならぬと言っているのである」(松浦玲『明治維新私論 アジア型近代の模索』)
ということです。

これらの人々に共通するのは(海舟は若干ニュアンスが違うが)、「王道」による他国との交流ということです。
しかし、現実の路線は、幕末の時点から「覇道」への道を歩み始めてしまったわけです。それを深く追及したのが孫文です。
孫文は、かなり日本人に遠慮して、次のような表現をしています。
「いまより以後、世界文化の前途にたいして、結局、西方覇道の手先となるのか、それとも東方王道の干城となるのか、それはあなたがた日本国民が慎重にお選びになればよいことであります」(1924年の「大アジア主義」講演より)
実際の日本は、既に「西方覇道の手先」となって、台湾出兵、日清戦争、日露戦争を行ない、台湾および朝鮮を植民地としてしまっていました。
「覇道を語るのは功利と強権を主張することであります。(中略)功利と強権を語ることは、鉄砲と大砲をもちいて人を圧迫することであります」
そして、覇道の路線は、1945年の日本の敗戦まで続くことになるわけです。