一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
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「想像力の方向性」と「暗示」

2007-05-21 02:11:34 | Criticism
文章には「暗示」というレトリックがあります。
情報A、情報B、情報Dとはっきり示して、情報Cがあることを、それとなく伝える、という方法です。

当然、この方法を取るためには、伝え手と受け手との間に、共有する知識や心理的傾向、シチュエーションなどがなければなりません。ある場合には、これは「省略」という形になることもあります。

「省略」のいい例としては、定型としての「挨拶」というものがある。
「どうも、この度は……」
なんてえのは、結構便利でして、「……」の部分には、「おめでとうございます」という祝いのことばから、「ご愁傷さまで」という悔やみのことばまで入れることができる。
それもシチュエーションが決まっているから、このようなことばが当然入るであろう、と推測がつくわけです。

これに比べると、文章における「暗示」は、なかなか難しい。
というのは、伝え手と受け手との間で、シチュエーションがはっきりしていない場合もあるし、共有する知識においても違いがあるのが当たり前だったりするからです。

特に小説の場合、書き手の想像力によって作り出された世界での出来事ですから、現実世界で読書をしている受け手とは、相違があるのが、ある意味で当然至極。
まずは、両者の間に「お約束」などはありませんので、いかに小説世界に入ってもらうかに努力を払うわけです。
書き手独自の世界に入ってもらったとしても、その上に今度は、共有する知識の相違というものがある。ある程度は、同じ日本語の使用者ということで、暗黙の諒解を得られるとしても、ちょっと特殊な世界を描いたものとなった場合にはどうでしょうか。
また逆に、読者の常識の範囲だけに留まった小説があったとしたら、それは面白いものと感じてもらえるでしょうか。
その兼ね合いをどうするかに、書き手の苦労があると言っても過言ではありません。

ここで「想像力の方向性」ということを考えてしまいます。
というのは、「暗示」というのは、書き手が読み手に「想像力の方向性」を示すことではないか、と思えるからです。
つまり、方向性さえ出せれば、その先にあるものが、ピンポイントで示せなくともよいのではないか。つまり、書き手が「東」を示して、読み手がそれを「北東」や「南東」と受けとってくれれば、それで十分ではないか、ということです(少なくとも「西」や「北」「南」ではないからね。推理小説の「ミス・ディレクション」や「レッド・ヘリング」などは、この曖昧さを意識的に使うことがありそう)。

論文の場合だと、それでは困るでしょうが、こと小説の場合なら、それで良しとすべきでしょう。
そもそも、小説全体が与えうるものも、その程度の曖昧さがあってしかるべきでしょう。それは、読み手の程度を甘く見ているという話ではありません。
読み手には誤解する権利がある、ということばも、そういう意味なのではと思えます。
かえって、学校教育での「この書き手が言いたいことは何か」を追及する読み方は、そのような曖昧さを含んだコミュニケーションである「小説」を変に誤解させることになるのではないでしょうか。