一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
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「攘夷論」という被害妄想について

2007-05-07 08:12:10 | History
ペリー来航当時、日本では、欧米列強に植民地化されるのでは、とか、清朝のように戦争状態になり、敗れて不平等条約を結ばされるのでは、とかいった危機感が高まっていた。

しかし、その時点で植民地化される可能性は低く、ましてや欧米列強が日本と本格的に戦う意図も条件もなかった、というのが今回のお話。

まず、「砲艦外交」を行なったアメリカであるが、ペリーは大統領から発砲を厳しく止められていた。
 He will bear in mind that, as the President has no power to declare war, his mission is neccessarily of a pacific character, and will not resort to force unless in self defence in the protection of the vessels and crews under his command, or to resent an act of personal violence offered to himself, or to on of his officers.
(彼=ペリーは以下のことに留意すべきこと。米大統領は戦争を布告する権限を持たないこと、彼の使命は平和的な性格のものでなければならないこと、そして、艦艇や乗員の保護のための自衛や、彼自身または将校に対する暴力への報復のため以外には、軍事力には訴えてはならないこと)

したがって、いかにペリーが強硬派であろうとも、日本の砲台から発砲を受け、艦艇が危害を受ける虞れのある場合以外には、4隻合計63門の大砲が火を吹くことはなかったのである。

ましてや、以下のような指摘もある。
「もし交戦になり、イギリスが中立宣言すれば、補給基地の香港を使えなくなります。巨大な艦隊が立ち往生してしまうんです。日本を植民地化する必要も能力も、アメリカになかったとも言えますね。補給線が長いという意味で能力がなかったし、必要性の点では経済の面や、世界戦略上のメリットが、当時はほとんどありませんでした」(東洋史家・加藤祐三氏の発言。岸俊光著『ペリーの白旗』より)

それではイギリスはどうか。
「イギリスにすれば、新興国のアメリカに先を越されてはメンツが立たない。しかし、このころは巨大な中国をどうするかが難しい時期でした。アヘン戦争の末、南京条約を結び、貿易の中心地になりそうな上海に入ったけれど、一八五一年に太平天国の乱が起こって、それは最終的に五七年まで続きました。五六~六〇年にかけて、イギリスは第二次アヘン戦争も仕掛けたし、日本を省みる余裕など、ほとんどなかったんです」(同上)

ロシアの南下政策を強調する向きもある。
けれども、当時、ロシアの南下の攻勢正面は、バルカン半島にあり、その主要敵国はオスマン帝国であった(1853年のクリミア戦争、1877年の露土戦争を想起)。
シベリア鉄道の開通もなされていない状況で、ロシアは、充分な補給線を持たないため、少数の陸軍兵力と多少の海軍力を東洋に派遣していただけであった。

また、フランスも、1858年のインドシナ出兵や1861 - 67年のメキシコ出兵で、こちらも軍事力に余裕はない。

つまるところ、欧米列強の植民地化という危機感は、世界情勢を知らないがための、一種の被害妄想であったのだ。