一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
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気になる存在 旧約聖書「ヨブ記」

2007-05-05 08:06:10 | Essay
小生、キリスト教徒ではないし、どの宗教の信者でもないので、その真の意味は分からないものの、ただ気になる旧約聖書の1書があります。
それは「ヨブ記」です。

テーマとしては、人間が不条理/理不尽な運命に会った時に、信仰を以て、どのように対処すべきかを、キリスト教的に述べているようなのですが……。

キリスト教徒は、この書を、
「神様がいるなら、正しい人がなぜ苦しむのか? ヨブを(は?)苦しみの意味を問い、神様と争います。誰もが悩む人生の理不尽を主題にした『ヨブ記』は、私たちの人生の多くの問題に多くの示唆を与えてくれるに違いありません。」(HP「ヨブ物語」
と捉えているようです。

しかし、ここまで問題を拡大することには、いささかの疑問なしとはしません。
たしかに、このような理不尽に満ち満ちた世の中で、信仰を持つことが「心理的」な助けになるのは分るのですが、一方で、社会的な認識に欠けることになりはしないか、との疑問が生じます。
なぜなら、社会的に原因のあることは、それなりの解決手段もないとはいえず、決定的な理不尽とは言えないでしょうから。

また、末期ガンの患者が自分の死を受け入れていく経過、すなわち「(1)否定(2)怒り(3)駆け引き(4)落ち込み(5)受けとめ」(エリザベス・キュブラー・ロス『死ぬ瞬間』)という段階に当てはめて捉える記事も見かけました。
しかし、「神」という存在は、どのようにして「代入される」のでしょうか?

そのような記事のように、誰にとっても理不尽の最たるものである「死」に問題を限るのが、適当な気がします(「ヨブ記」の記述とは、いささか離れるかもしれません)。
ただし、その「死」には、自分自身のものだけではなく、身近な存在のそれをも含みますが。

と、ここまであれやこれやと考えてきましたが、これ以上いくら考察してみても、隔靴掻痒という感は拭いきれませんでした。
やはり、「信仰」や「神」について真剣に考えたことのない小生には、無理だったのでしょうね。

とりあえずは、気になる存在として、解決すべき課題の一つとしておきます。