一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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歴史について考える。

2007-05-19 03:05:42 | Essay
「歴史上の事実を、現在の価値観で断罪するな」
との言説を聞くことがありますが、これは正しいでしょうか?

おそらく、このような価値観は、道徳の教科書のように歴史が扱われていたことへの批判として、初めは言われたことなのでしょう。

確かに、『春秋』を嚆矢として、我が国では『大日本史』などは、勧善懲悪史観/朱子学的大義名分論に基づき書かれたため、史実をねじ曲げてまで、その価値観を押し通すところがありました。
「世衰へ道(みち)微ニシテ、邪説暴行有(ま)タ作(お)コル。臣ニシテ其ノ君ヲ弑(しい)スル者之(こ)レアリ。子ニシテ其ノ父ヲ弑スル者之レアリ。孔子懼(おそ)レテ春秋ヲ作ル」(「孟子」巻六縢文公章句下)
というわけです。

近代史学は、その反省から価値中立的に史実を記述する、という方向に向かいました。
「歴史は其時代に現出(でき)たる事を、実際の通りに記したが良史なり、記者の意にて拵(こしらえ)直しては歴史の標準にならぬなり。其事実には善悪のあることもあり、なきこともあり、又善悪の分らぬこともある」(久米邦武『勧懲の旧習を洗ふて歴史を見よ』)
いわゆる「実証主義」というわけですね。

しかし、史実の記述は事実のまま、で良いにしても、そこからの問題が残ります。
「現代に生きる、この私は、何のために歴史を学ぶのか」
という問題です。

「事実は分った。だから、どうだっていうの?」
という疑問が、おそらくは高校生辺りからも出てくることでしょう。だから、歴史は暗記もの、という受験通念も生まれてくるわけです。

むしろ、「何のために歴史を学ぶのか」という問題の立て方ではなく、「歴史から何を学ぶのか」と言い換えた方がいいのかもしれません。

ここで前提となるのは、人間というものは、同じような状況では同じような行動をしがちなものだ、ということです。もちろん、社会条件などの環境が変われば、当然、若干は違ってはきますが、それもヴァリエーションの中に含まれるような、基本的な行動というものがありそうなのです。

そうでなければ、過去の藝術作品から、我々は感動を覚えることもないでしょう。『平家物語』の平氏の没落に涙することもないでしょうし、『八犬伝』の八犬士の行動に共感を覚えることもないでしょう。
ましてや、時代も世界も違う、古代ギリシアのメディアの悲劇に、深い感動など覚えることもありえません。
古今東西を問わず、古典のもつ力というのは、こういった人間の変らなさ、あるいは共通性に基礎を置いているからです。

それならば、「歴史から何を学ぶのか」という問いにも、答えることが割とたやすくなることでしょう。

以下のことばは、その答えを出す上で、示唆を与えてくれることでしょう。
「だからこそ人間存在の歴史性の意識は、『罪を反省せぬ者に未来はない』と断言した古代イスラエルの予言者とともに始まるのである。そして歴史性の意識と罪の論理がこのように結びついている以上、歴史学は科学ではなくて全人類へ向けた一種の法廷弁論なのだ。歴史を書くということは一つの判決文を書くことであり、歴史家に公正な態度と事実の尊重が要求されるのもそのためである。」(関曠野『歴史の学び方について』)
関曠野(せき・ひろの)
『歴史の学び方について―「近現代史論争」の混迷を超える』
窓社
定価: 1,260 円 (税込)
ISBN978-4943983989