一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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人物を読む(4)―玉虫左太夫 (1823 - 69)

2007-05-26 08:47:11 | Person
旧幕府の統制を離れ、北へ向おうとした榎本武揚に対して勝海舟は、次のように助言したという。
「奥羽越の諸藩は、天下の情勢を見る目もないし、人材もいないから、これらが起こす戦いに関わるのは止めておいた方がいい」

しかし、奥羽越の地に人材がいなかったわけでもなく、彼らに新政権の構想力がなかったわけでもない。
海舟は南西諸藩のことはよく知っていたであろうが、奥羽越諸藩については無知であったと判断せざるを得ない。ましてや、それが原因で有力な艦隊を率いる榎本が、奥羽をさておいて北海道へ向ったとすれば、海舟の罪は大きい(榎本は、会津藩から「天下の大勢を見るに迂愚も亦甚し」と批判されているが、その非難は海舟に帰すべきか)。

そこで、ここでは、奥羽越の地の人材について。

まずは仙台藩の玉虫左太夫である。

左太夫は、昌平黌の塾長となったことがあるくらいであるから、元来は儒学の徒である。
しかし、1860(万延1)年、日米修好通商条約の批准書交換のための幕府使節一行にしたがい、アメリカ合衆国に渡ったことから、あるべき国家像を変化させていく。
「貌列志天徳(プレジデント)ノ居宅ナレドモ、城郭ヲ経営セズ、他ノ家ニ異ナラズ(中略)花旗(アメリカ)国ハ共和政事ニシテ一私ヲ行フヲ得ズ、善悪吉凶皆衆ト之ヲ同(おなじく)シ、内乱ハ決シテ、ナキコトトスルナリ」
ということばが、『航米日録』に残されている。

戊辰戦争時には、仙台藩の近習兼軍務局応接統取。
この立場で列藩同盟の政策・戦略機関「奥羽越公議所」にて、政戦略を練ることになる。

彼の長期的な政策を、星亮一『奥羽越列藩同盟』から紹介しておこう。
「左太夫は『和ハ天下ヲ治ルノ要法ナリ、此要法ヲ失ヒ、何ヲ以テ人心帰伏セン」と最初に和を唱え、さらには言論の自由、賄賂の禁止、賞罰の明確化をあげた。その上に立って軍艦を建造し軍備を整え、他国の侵略を防ぐ。蒸気機関によって産業を興し、外国人を雇い技術の導入をはかる。万国と交易し、国を富ませることを強調した。」
しかし、現実には新政府軍の前に列藩同盟は崩壊、仙台藩の政治責任を一身に取らされて、切腹することになったのである。