一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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人物を読む(5)―山川大蔵(浩、1845 - 98)

2007-05-27 09:37:47 | Person
一方、戊辰戦争後、明治新政府に仕え、軍人として陸軍少将の地位にまで登ったのが、山川大蔵(浩)である。また、弟の健次郎は、学者として東京帝大総長となり、妹の捨松は津田梅子らと留学のため渡米、帰国後大山巌の後妻となった(徳富蘆花『不如帰』で浪子の継母のモデルとなる)。

大蔵は、会津藩家老の長男として生まれ、京都守護職に就いた藩主松平容保の側近として、1862(文久2)年に京へ赴いた。1866(慶応2)年には幕府の樺太境界議定の派遣員に選ばれ、ロシア・ドイツ・フランスへ渡る。その地で、会津藩の兵制と民政との遅れを痛感したといわれる。

帰国後、藩政改革を志すが、戊辰戦争が勃発、鳥羽伏見の戦いで敗れた藩兵を、無事に江戸へ帰すことに尽力する。ちなみに、この戦いで会津は131名の戦死者を出している。

会津に戻った大蔵は、兵制の近代化に努め、武器商人のスネル兄弟より、ライフル銃780挺(1500ドル)、その他の兵器・弾薬20,000ドル相当を購入、また、旧幕府陸軍より大砲23門とミニエー銃、ゲベール銃若干を貰い受けたが、時は既に遅く、新政府軍は、着々と奥羽の地に軍を進めていた。

大蔵は砲兵隊長として日光口へ進出、幕府伝習隊を率いる大鳥圭介とともに奮戦、土佐兵を率いる板垣退助・谷干城らの会津領侵入を防いだ。

その後、新政府軍は母成峠を突破、若松城に迫ったと聞いた大蔵は、有名な「彼岸獅子」の計略により包囲する敵中を突破、入城に成功する(彼岸獅子の笛や太鼓を先頭に立てて堂々と行進し、新政府軍があっけにとられた隙を衝いた)。

入城後、軍事総督の地位に就くが、1か月の籠城を経て、ついに降伏と決定。奥州での戦いにも幕が下ろされる。
「会津落城後、経済、人心ともに荒廃して、世直し一揆と称する大規模なる百姓一揆あり、権威失いたる藩首脳これを治むる自信なし」(柴五郎『ある明治人の記録』)
石光真人編
『ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書』
中公新書
定価:693 円 (税込)
ISBN978-4121002525