なんでも人生

Whatever life is

私の車遍歴 My car history

2018-08-26 | 日記
私の車購入で今回の車(ヴォクシーV、4WD)ほど無頓着(性急)であったことはない。理由は12年間22万km乗ったアルファードハイブリッドが故障してレッカーで運び込んだトヨタから修理費が47万円、修理期間1週間と言われ、買い換え時期だと判断。担当セールスマンに「即納、値段手頃、7-8人乗り、4WD、自動ブレーキ付き」の程度のよい中古車はないかと聞いたら、その条件を満たす中古車は見つからず(捜そうとせず)値引きがよい新車を勧められ来店30分ぐらいで購入契約してしまった。納車まで遠出が2度予定がありその日は代車を提供すると言う。

そんなことはどうでもよいが、忘れる前に(認知症が始まる前に)私の車遍歴を記しておこう。
私は高校生の時自動2輪運転免許を塚本の運転試験場で取得、普通免許はアメリカ留学が決まった時、大阪古川橋試験場で2度目の実地試験で取得した(自慢ではないが一度も運転教習場に通ってない)。

私が車を常時運転し始めたのはアメリカアイオワ州(広くて車が少ない)、最初の車は留学先の家にあったVWステーションワゴン。砂利道でスピンして砂利道の怖さ経験、車線変更で隣の車に接触、オイル漏れでエンジンを焼きつけた苦い思い出がある。空冷エンジンのうるさい車だった。

日本に帰り就職、結婚。最初に自分で買ったのが「いすずベレット4ドア」。10年(以上?)中古で2万5千円だったような記憶があるが、新婚旅行(伊豆)に行こうとした時エンジンから煙(多分蒸気)が出て、急遽伊丹空港のレンタカー屋に駆け込みトヨタセリカを借りて行った。セリカは格好いい車で気持ちよく運転していたら静岡あたりでトラックの積み荷に接触され警察を呼んで事故聴取(先方100%過失)。そのベレット、ラジエーターかホースからか蒸気が漏れオーバーヒートでエンスト、水を足して走った思い出がある。


いつ止まるか分からないベレット(それなりに愛着はあった)に別れを告げ、三菱FTO1400cc新車を購入。確か50万円ぐらいではなかったかな(当然ローン)? この車は格好よく、よく走った。宝塚から日帰りで岐阜県の高山まで往復したこともあった。走り過ぎてマフラーに穴が明き自分で耐熱パテ、テープで補修(当然すぐ外れる)、神戸で信号待ちで追突され、私も滋賀県で雪道で滑り前方停止車に追突してしまった。チェーンを未装着の私の過失、相手に怪我がなくて安堵。それから雪道対策(昔はチェーン、今は4WDスタッドレスタイヤ)は怠らない。FTOは5年ぐらい乗ったかな? 

三菱のエンジンに惚れ込み(他を知らなかった)、ギャランΣ2000cc発売とともに購入。FTOに比べゆったりセダン、子供達とドライブ旅行(キャンプ)にもよく行った。信州にスキーに行きオイルショックで日曜日ガソリンスタンド全国的に閉鎖、名神大垣でガス欠、楽しくない思い出もある。

そんなこともあり、4-5年で三菱ランサー1600ccセダンに買い替え、実用的な車で家族旅行、友人と釣り、スキーに活躍。1983年アメリカ赴任が決まり、空港への道中、中古車買取屋に25万で売却。

アメリカNYに赴任した時、車一台(リース)貸与された。シボレーマリブ3800cc、夢に見たアメ車、乗り心地抜群。アメリカ、カナダを走り回った。特にマンハッタンは暇な週末にはよく行った。一度走っている最中に道路に落ちていた金属ワイヤーがドライブシャフトに巻き付き修理、スピード違反1度、駐車違反1度。

マリブは私が通勤で使うので家内は買い物、子供の学校とやはり車は必要(アメリカでは必需品)。しかし彼女は免許がない。そこで私が会社から帰って近所の工場の広大な駐車場で運転の仕方(オートマなので進行は右足でアクセル、止まるのはブレーキ踏むだけ)を教え、実際道路運転(免許取得者が横に乗りLマーク=練習中を掲示)に馴れた頃、近隣警察署で学科(コンピューター押しボタン式)と道路で警官を横に乗せ実施運転試験を受け無事合格。家内の運転免許の原本はアメリカコネチカットである。ちなみに私の日本免許をアメリカ免許に変更する(居住者は義務)とき学科試験があった。家内と同時に隣の画面で試験を受けたが、家内は100点、私は不合格。家内は教習本(英語)を丸暗記、私はなめて見てもいなかった。しかし、私は落第した時点で再試験(同じ問題)が受けられ、何とか及第点でアメリカ免許を発行してもらう。家内が免許を取ったので、車は日本人補習校の掲示板に帰国日本人が750ドル(約10万円)売りに出していたシボレーインパラ4500ccを買う。とにかくでかいフルサイズ。家内は家のガレージからバックで出すとき石垣をこすっていた。2年後帰国する時にアメリカ人同僚に450ドルで売却。

日本に帰りすぐ買ったのがトヨタスプリンター1400cc(?)。まったく普通の車。しかし新車で走行中にいきなりタイヤが破裂。トヨタは私がガラスか金属破片に乗り上げたと言うが決してそんなことはない。

スプリンターに一年も乗らないうちにタウンエース8人乗りに買い替え。視界抜群、乗り心地が良く、家族で北海道、東北などキャンプしながら旅行した。会社の同僚ともスキーに行った(当時東京勤務)。最高のレジャー車だったが、英国勤務が決まり売却。

英国マンチェスターで会社から短期間(新車が来るまで)貸与された車はBMWディーゼル車、音はうるさいが初めて独車の高速走行安定性を経験。幅広タイヤと強いサスペンション。

英国では会社の管理職には社用車に乗れる制度があり、私もVWパサート2000ccを新車を選択。英国国内も走り回ったが、スイスに出張にもこの車を運転して行った(ドーバー海峡はフェリー)。往路はベルギー、ドイツ、スイス、復路は休暇を取ってイタリア、フランス、スペインと旅行を楽しんだ。故障の心配がないという理由でVWにしたのに、英国で坂道(至る所)でパワーブレーキ故障、パニックになったが何とかエンジンブレーキで近くの町のVW販売店に駆け込むとブレーキホースが外れていた。メカは平然とクリップ止め直して「次は自分で簡単に直せるよ」と、これが信頼性が一番高い独新車。しかし高速安定性抜群、ドイツの速度無制限アウトバーンも140kmぐらいで何度か走ったが楽しむどころか超緊張、そこではBMW,ポルシェ、ベンツが時速200kmぐらいでぶっ飛ばしている。
英国人の運転マナー良かったな! 車線変更でウインカー出すと絶対減速して入れてくれる。一昨年北海道の女性ドライバー、私が左車線減少でウインカー出して右車線に変更しようとしたらクラクション鳴らして加速、車線変更を妨害。黒のヴェルファイヤーだったが名前を聞いておけば良かった。 英国でスピード違反1度、駐車違反2度。

1994年帰国、すぐ買ったのがホンダインテグラ。格好は良かったが、実用的でなかったので3年も乗らなかったのでは?

初めてスバル車を買った。フォレスター4WD,ツインターボ2000cc。
この車は私の車遍歴で一番満足度が高い。初めて4輪駆動の威力(氷ノ山の山道を兵庫県から鳥取県まで走破、信州の30cm積雪道を快適走行)を経験、ツインターボ250馬力の加速力に驚嘆。悪路を高速(低速でも)で走ってもショックを気持ちよく吸収してくれるサスペンションは素晴らしかった。7年乗って10万km、タイミングベルト交換に25万円かかると言われ手放した。家内が家のガレージポールに当てリアフェンダーを派手に凹ませた。雨の日に横から20歳の学生に突っ込まれフロントフェンダーを交換。


次に買ったのがホンダフィット、理由は燃費23km/Lの宣伝文句(実際は16kmぐらい)。乗り心地は悪かった(良い表現では軽快)が見た目より車内は広い経済車。

アルファードハイブリッド社用車を退任時に査定価格で買い取り、今年の3月エンジン停止(ハイブリッド用インバーター故障)まで12年間、約22万km乗った。当然いい車だったが、ハイブリッド系故障でエンジン停止はいただけない。今のハイブリッドは電気駆動系故障でもエンジンは動くらしい。

ヴォクシーを5か月間乗った感想はあくまでも実用車(乗り心地悪いが、室内空間はある)。買って3週間目に近隣女性ドライバー(携帯よそ見運転)に追突された。こんな人こそ自動ブレーキ車運転を義務化すべき。

そして忘れてはならない我が家で一番愛され、活躍しているのがダイハツ ハイゼットジャンボ、4WD。購入して6-7年になるがとにかく働き者だ。家内はこの車しか運転しない。

私は今のヴォクシーで終わるつもりはない。次に欲しいのは、マツダCX8(ディーゼル4WD7人乗り)か新型プリウスアルファ(今年中に発売予定)7人乗り4WD。
多分3-4年後になるだろうがその時、体力、知力、資金力がどうか? 
その頃に認知症テストも受けなくてはならない。今日の日付、一度絵を見せられ、数字遊びをさせられ後に先に見た絵を聞かれるらしいがそんなこと若い時からできなかったぞ。言われた時間を円に長短針を書き込まなくてはならないらしいが、私の頭は既にかなりデジタル化している!
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2階トイレリフォーム 2nd fl toilet tiled

2018-08-22 | 日記
先日1階トイレにタイルを貼り清潔感が増して掃除が楽になったと報告した。
こうなればやっぱり2階トイレも手を付けなくてはと座るたびに思い始めた。
先日注文した激安タイルはまだネットショップには残っているようなので、2ケース(40枚)とタイルボンド(ヤフオク)も注文。
2階トイレも私が10年前に壁紙の上に木の腰壁を張りそれなりに雰囲気はあったが、もう役目は終えた。

1階のトイレリフォームで要領は分かっているし、大きいサイズのタイル(25x33cm)で目地を入れないので作業は早く半日で貼り終えた。家内にタイルにボンドを伸ばしてトイレの外から渡して貰ったので、下から重ねてゴムハンマーで叩いて接着。午後には1x4材でモールディングを作りオイルステインを塗って仕上げる。モールディングの上にちょっとした物がおけるように天板も取り付ける。私は携帯を持って入る(何のために?)のでとても助かる。
費用:タイル(送料込み)5500円、接着ボンド2500円、1x4材182cm3枚(モールディング)750円、合計9000円弱。オイルステインは残り物。
さあ、座り心地は?

うちにはトイレが3か所ある。私が一番愛用(?)しているのはキッチンハウスのトイレ。庭の手入れや大工、土木作業で外にいるのが多いため、自然にそこに駆け込む回数が多いのとキッチンハウスのトイレは給排水配管、便器取り付けと自分でやったので一番愛着がある。
実はもう一つトイレを作る構想もあるのだが、それは出来てから報告しよう。
イギリスに最初に住んだ家(かなり大きい)のメインベッドルームにトイレが付いていた。最初は慣れてないので不要だと思ったが実際住んでみるととっても便利だった。


最近ゴルフのことを書いてなかった。相変わらずのへぼゴルフで報告することもなく、暑くてあまりプレーしてなかった。それでも近隣や気の合った仲間、クラブ月例(シニア)と月3回ぐらいの結果大体95ぐらい。しかしここ2回ほどシニア杯で87が出て、しかもハーフ41、40と出来過ぎ! 好調の理由はアプローチとパットが上手くいっている。これはとても珍しいことだ。
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小野まつり Ono Festival

2018-08-19 | 日記
5年前くらいにふと立ち寄った小野市のイオン、横の市民広場で祭りをやっていた。あまり祭り(人混み)好きではないが覗いてみると、舞台の上でよさこい踊りをもじった「おのこい踊り」とやら若者たちが元気よく踊っている。なかなか上手かったという記憶があり、昨日は涼しく家内と暇つぶしに観に行った(片道40km)。 

さて祭りだが、主催者によると関西最大のダンスパフォーマンスと花火となっているが、事実期待以上の感動があった。
3つの大舞台(芝生広場)が設営されそれぞれに屋台が数十軒出店、どこで何を観ていいのか迷ってしまう。本部で案内スケジュールを貰うがよく分からないので一番空いているところに(芝生)座りこむ。

一年間練習を重ねた若者達が迫力たっぷりに踊りまくり、小中学生らのヒップホップも見事、夕方6時から8時までお金を払ってもいいぐらい楽しませて貰った。
感心したのは3つの舞台会場(広場)を、ダンサー達は順番に回りどこの会場でも同じものが見れる仕組みになっている。これはいい、観衆を分散できるし演者は練習の成果を3回も披露できる。全部で20のグループがあったが、中でも大学生チーム(神戸大学、立命館、早稲田、神戸学生連合)はさすが。百人ぐらいのメンバーがところ狭しと全身で踊るのは迫力満点、青春一杯ぶつけている。
8時から花火が始まり、これも会場芝生からすぐそばで上がるのでなかなかのものだ。

さて花火が終わって駐車場(街)から脱出するのが大変、当然大渋滞に巻き込まれたが、畦道を走っている車があり一か八かそれについて行くことにした。方向は自宅と反対だったが5-6分で175号線に出れて大正解。
来年も誰か誘って来ようかな? 祭り嫌いと言ったが、ここの踊りには感動がある。
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きゅうりのきゅうちゃん漬け Cucumber pickle

2018-08-15 | 日記
きゅうちゃん漬けレシピ
材料
きゅうり 20本 約2kg
しょうが お好みで
ゴマ お好みで

調味料
砂糖200g、酢100cc、みりん100cc、醬油500cc

作りかた
1. きゅうりを水洗いして十分な水量で3分間ゆでて、冷ます。
2. 1の作業を合計三回繰り返す。
3. 冷ましたきゅうりを小口切りにする
4. 小口切りのきゅうりを手でよく絞って水気を少なくする。
5. 上記の調味料(ミックス)に12時間漬ける
6. きゅうりを取り出し、残った調味料を火にかけ水分をとばす。
7. きゅうりを調味料に戻し2-3日漬けこむ。
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戦争賠償 War Reparations

2018-08-14 | 日記
生物には無茶苦茶な正義(?)がある。戦って勝った方が正義、負けた方は悪者で代償を払うしきたりがある。つまり強い方が食べる方で弱い方は餌である。日本は戦争をして負けてしまった(結果は最初から分かっていたが、東条英機は愚か過ぎて情勢判断能力欠如)ので、戦争賠償をしなくてはならない。
日本は1945年8月14日にアメリカ、イギリス、中国が作ったポツダム宣言(Potsdam Declaration=日本軍無条件降伏)を受諾し、1945年9月2日に調印・即時発効(降伏文書)第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)は終結。日本の終戦記念日はポツダム宣言受託の翌日(15日)の天皇玉音放送「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」日になっている。

ソビエト連邦は8月8日に対日宣戦布告しポツダム宣言や降伏文書に参加したものの戦後処理を定めるサンフランシスコ平和条約に署名しておらず、1945年9月3日までに歯舞諸島に至る全千島を占領し、自国領土への編入宣言を行った。

日本のサンフランシスコ平和条約に基づく戦後処理

フィリピンに対し5億5000万ドル、ベトナムに対して3900万ドルの賠償を行った。
条約当事国に対して日本の在外財産(約237億ドル)の処分権を認める。
赤十字国際委員会に捕虜に対する償いとして英貨換算450万ポンドを支払い各国へ分配。
韓国とは1965年の日韓請求権・経済協力協定により、財産・請求権問題が解決されたことを確認するとともに5億ドルの経済協力(無償3億ドル、有償2億ドル)を実施。
北朝鮮との問の財産・請求権問題については、2002年9月7日の日朝平壌宣言においては、「国交正常化交渉において誠実に協議する」となっている。
中国とは日中国交正常化で賠償問題は解決となったため、台湾とは個別処理ができなくなった。
個別の平和条約に基づき、日本はビルマに2億ドル、インドネシアに2億2308万ドルの賠償を供与した。インドは賠償請求権を放棄した。

ソ連とは1956年の日ソ共同宣言に基づき、ソ連は日本に対する賠償請求権を放棄し、日ソ双方は戦争のすべての請求権を相互に放棄。

ラオス、カンボジア、オーストラリア、オランダ、イギリス、アメリカの6カ国は賠償請求権を放棄。

戦争を始めた東条英機は大勢の日本(外国も)国民を殺し、あげくのはてこんなつけまで回すなんてA級戦犯では足りないぐらい(国民から石投げの刑にしないと)。
しかし良いことは、そのおかげで(敗戦)によりこんな平和国家ができて、私の無責任な言いたい放題が見逃される。

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トイレリフォーム Toilet tiled

2018-08-10 | 日記
一階トイレは10年以上前に私が壁紙の上に90cm高さで木の腰壁を貼り付けリフォームした。アメリカ田舎トイレ風でそれなりの趣(?)はあったが、家内が掃除するのに木の壁は雑巾が滑らない(引っかかる)という指摘があり、今回タイル張りに変えることにした。

まずタイル捜しだが色を選ぶのが難しい。タイルはインターネットで半端物(残り物)が格安に売られているのでそこから選択、結局33x25cmの大理石風の白が無難、それより値段が安く(一枚100円)サイズが大きいので作業が速いのが一番の理由。
ネット(この店から過去2-3度購入)で合計40枚(2ケース)注文、送料1500円、合計5500円。接着ボンドは2kgx2をオークション(これも残り物)で2000円(送料込み)で落札。
さて作業だが、木の腰壁を全部取り外すと埃のせいか壁紙が汚れている。雑巾がけをして狭いトイレ室内に私が入り、外から家内がタイルにボンドを伸ばして渡してくれたのを貼り付けてゴムハンマーで叩いて圧着していく。目地を入れないのとタイルが大きいので作業は早いが端になると採寸、タイルカッターで切断する必要があるので、狭い室内を出たり入ったり、扇風機で送風しているが汗だく。午前中で大きいサイズは張り終わり、午後に端の部分(サイズ調整分)を張り作業は終了。
白い大きなタイルは清潔感があってなかなか良い。
キャビネットとモールディングも家内がフレンチブルーを塗り雰囲気が変わった。
床もタイル張りに変えたいが、床下点検口がありタイルを張るのは工夫が必要なのでまたの機会だ。
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長崎原爆投下 Atomic Bomb dropped on Nagasaki

2018-08-09 | 日記


1945年(昭和20年)8月9日午前11時02分、アメリカ軍が長崎市に原爆投下、人類史上実戦で使用された2発目で最後(今のところ)の核兵器である。

アメリカ軍のコードネームを「ファットマン(Fat Man)」核爆弾投下で7万4千人が死亡、建物は約36%が全焼または全半壊。本来の投下目標は小倉市だったようだが目標確認に失敗して長崎市に変更、高度9,000mから「ファットマン」を手動投下、市街中心部から北へ約3kmの松山町171番地の別荘のテニスコート上空503mで炸裂。

長崎原爆はプルトニウム原子爆弾で規模は広島に投下されたウラン235の原爆「リトルボーイ」1.5倍の威力であったが長崎市は周りが山で囲まれた地形であったため、熱線や爆風が遮断され広島よりも被害は軽減されたようだ。もし小倉に投下されたら被害は広島どころではなかった。
トルーマン大統領(就任4か月)はこの長崎原爆投下で原爆の威力と市民が目標にされていることを初めて認識、さらなる原爆投下を軍に中止させた。

広島に投下された原爆(リトルボーイ)は砲弾の中にウラン235を臨界質量以下の小片で2つ離して装填、火薬爆発により合体させ臨界質量以上(核分裂)になるしくみで、濃縮ウラン235が60kgが装填されていたが実際核分裂が起きたのはたった1kgだったようだ。

長崎投下の原爆は火薬の中心にプルトニウムを球形に配置し火薬爆発で一瞬で均等圧縮で超臨界(核分裂)を起こすしくみのもの。プルトニウムはウラン238が中性子を吸収しウラン239になり、2度のベータ崩壊(中性子が陽子に変わる)で陽子数94個の「プルトニウム239」が生成。

無知(無茶)な日本はまるで機関銃(大砲)相手にゴム銃で戦っているようなもの、戦争を起こしたのは大馬鹿、早く降伏しなかったのはさらに愚かだが、戦争の犠牲が下級兵士と市民で、軍の上層部(東条英機)は負ければ戦争犯罪者になるのが怖かった大臆病者。
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広島原爆投下 Atomic bomb dropped on Hiroshima

2018-08-06 | 日記

「いかなる詭弁を用いようと、原爆投下の主目的が、戦闘員ではなく女子供老人などの非戦闘員の殺傷であったことを否定することはできない。そもそもアメリカは日本を挑発しなければ決して真珠湾を攻撃されることはなかっただろう。」―ハーバート・フーバー 第31代アメリカ合衆国大統領
「原爆投下は、米国兵士の命を救うためには全く必要のないものだった。我々は日本に原爆を投下する必要はなかった。」―ドワイト・アイゼンハワー 米第34代大統領 連合国軍総司令官
「日本がソ連に和平仲介を頼んだと知った1945年6月、私は参謀達に、戦争は終わりだ、と告げた。ところがワシントンのトルーマン政権は突如日本に原爆を投下した。私は投下のニュースを聞いたとき激怒した。」―連合国軍総司令官 ダグラス・マッカーサー
「ドイツがアメリカに原爆を落としたとしましょう。その後ドイツが戦争に負けたとします。その場合我々アメリカ国民の誰が”原爆投下を戦争犯罪とし、首謀者を極刑に処す”ことに異議を唱えるでしょうか?原爆投下は外交的にも人道的にも人類史上最悪の失敗だったのです。」―マンハッタン計画参画の科学者 レオ・シラード
「アメリカはこの戦争を外交的手段で終了させられた。原爆投下は不要だった。日本の犠牲はあまりにも不必要に巨大すぎた。私は東京大空襲において、同僚達と、いかにして日本の民間人を効率的に殺傷できるか計画した。その結果一晩で女子供などの非戦闘員を10万人焼き殺したのである。もし戦争に負けていれば私は間違いなく戦争犯罪人となっていただろう。では、アメリカが勝ったから、それらの行為は正当化されるのか?? 我々は戦争犯罪を行ったんだ。一体全体どうして、日本の67の主要都市を爆撃し、広島・長崎まで原爆で、アメリカが破滅させ虐殺する必要があったというのか。」―ロバート・マクナマラ ケネディ政権国防長官、元世界銀行総裁
「日本上空の偵察で米軍は、日本に戦争継続能力がないことを知っていた。また天皇の地位保全さえ認めれば、実際原爆投下後もアメリカはそれを認めたのだが、日本は降伏する用意があることも知っていた。だがトルーマン大統領はそれを知っていながら無視した。ソ連に和平仲介を日本が依頼したことも彼は無視した。この野蛮な爆弾を日本に投下したことは、なんの意味を持たなかった。海上封鎖は十分な効果を挙げていた。この新兵器を爆弾、と呼ぶことは誤りである。これは爆弾でもなければ爆発物でもない。これは”毒物”である。恐ろしい放射能による被害が、爆発による殺傷力をはるかに超えたものなのだ。アメリカは原爆を投下したことで、中世の虐殺にまみれた暗黒時代の倫理基準を採用したことになる。私はこのような戦い方を訓練されていないし、女子供を虐殺して戦争に勝ったということはできない!」―ウイリアム・ダニエル・リーヒ 米海軍提督・大統領主席補佐官
「日本との戦争へのロシアの参入は、その終結を早める決定的要素であり、原子爆弾が一つも投下されなかったとしても、その事実は変わらなかった」―クレア・リー・シェンノート 米陸軍航空隊大尉(のち少将)
「最初の原子爆弾(ネバダ州の実験)はいわば不必要な実験であった。これを一度でも投下したのは誤りだった。(…中略…)原爆は多数のジャップを殺した。しかしジャップはかなり前からロシアを通じて和平の打診をしていた」-ウィリアム・ハルゼー・Jr 太平洋艦隊第三艦隊司令長官(のち元帥)
「ロシアの参戦と原爆がなくとも、戦争は二週間で終わっていただろう(…中略…)原子爆弾は戦争の終結とは何ら関係がなかった」-カーティス・E・ルメイ 陸軍航空軍少将(のち空軍参謀総長)
「(原爆か上陸作戦かという選択に関して)ジレンマは不要なものだった。なぜなら、じっくり待つつもりさえあれば、海上封鎖によっていずれ石油、米、薬品や他の必需品が不足し、日本人は窮乏して降伏せざるをなくなったからだ」-アーネスト・J・キング 米海軍元帥・艦隊司令長官兼海軍作戦部長
「私はトルーマンに、広島の破壊を示す写真を示した。大統領は、それを見て、我々が負わなければならない恐るべき責任について、私に吐露した。」―ヘンリー・スティムソン 米陸軍長官
「軍人として命令を受けた以上、任務を遂行するのは当然」[100] ―ポール・ティベッツ(エノラゲイ号機長)
「多くの人々が死んでいるのはわかっていた。喜びはなかった」[101][102]―モリス・ジェプソン(エノラゲイ号技術者)
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ふらっと信州 Nagano Again

2018-08-03 | 日記
台風一過、また獄暑が戻ってきた。7月30日月曜日、今週(普段から)は2人とも何の予定はない、どっか涼しいところに避難しよう。車に1週間分の着替えを放り込み朝6時に出発、涼しいところは信州の山しかない。せっかくなら海も見たい、日本海経由で一先ず目的地は福井県の小浜、高速道は嫌なので一般道でナビ設定。さてどの道を連れていくのか? 家を出て篠山(ここまでは予想通り)、そこから京都府の美山、大江町と美しい田園や里山道路とナビは我々の趣向を学習したのか(そんなわけない)のんびりドライブ。途中先を急ぐ通勤車には道を譲りながら小浜に9時前に到着、ここには用はないので次の目的地どこにしよう? そうだ、石川県から高山(岐阜)に抜けるホワイトロード白山(旧白山スーパー林道)は標高が高いし景色も雄大、白山市中宮を目的地に設定。若狭湾、越前海岸の青い海を眺め、福井から整備されたきれいな田園を走り永平寺近くの道の駅で昼食(当然越前そば)、ここらは今年の2月に豪雪に見舞われたところだ。ホワイトロードに入ると深い峡谷が続き、この暑さでも白山にはまだ雪が残っている。水量は多くないが滝も見える。雄大な景色を2時間楽しんで白川郷(合掌造りの里)に到着。ここも昨年の9月に来たばかりなので立ち寄らず、高山を目指す。ところが5分も走ると何と国道通行止め、先週の台風のためらしい。高速道で高山に抜けられるが、それでは面白くないので富山回りにする。富山も散居(屋敷林)があり好きな県だ。富山県には日本一が多い(持ち家率、貯蓄率、製薬等)が、我々が一番感動するのは道路際にゴミがないこと。県民のモラルが高いのが伺える。新潟県糸魚川から長野に入ると虫(アブ?)の大群に遭遇、涼しいので窓を開けて走行していたので10匹ぐらい車内に侵入、そしてこいつら何と血を吸いにくる(痛い)。殺虫スプレーで退治したが一時パニックになった。 途中温泉宿があったが虫が多く車から出れる状態でなく、白馬まで走りそこで宿泊。
翌朝起きると目の前に白馬連峰がまだ雪を残して雄大な姿を見せている。早朝の一番気持ちがいい時間ぼーと過ごすのはもったいない。素敵な別荘村を約一時間散歩してとても気持ちがいい。

昼間は気温が上がり散歩、ハイキングどころではない。茅野まで移動して自由農園とAコープでドライフラワー、おやきを仕入れる。後は八ヶ岳の別荘巡り、これもいつものコースだが素敵な別荘は見るだけでも保養になる。その日の宿泊は清里。昔のバカ賑わいはなく閑散としては我々には好都合。翌朝早く(6時ぐらい)美しが森に登る。ここから野辺山雲海や富士山(遠くに)が望める。秋の紅葉は絶景。開園前の萌木の村を一時間散歩して花や可愛い建物を楽しむ。

その後、野辺山の野菜市場で果物を買い、軽井沢に向かってもいいが一月前に行ったばかり、歩いてうろうろするにはどこも暑過ぎる。家内は家の庭の花が水不足で枯れるのが心配になり帰ろうと言い出した。小淵沢を少しウロウロ(昔泊まったペンションを捜すが見つからず)して、蓼科、茅野、諏訪、塩尻、中山道を走り、織部、志野焼陶器を買うため多治見に立ち寄る。ここは日本一気温が上がるところで夕方4時なのに36.3度。陶器店を2軒回るがもう限界。それでも家内は好きな食器が見つかったようで満足。そこから一気に高速で家に帰れないことはないが、夜の高速運転は好きでないので一宮の駅前ホテルで宿泊。翌朝6時には出立して岐阜、滋賀(近江八幡に立ち寄り)、京都を経由して夕方に家に着く。
家内は早速ホースでジャージャー散水、確かに花もドライフラワー寸前であった。
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