地球族日記

ものかきサーファー浅倉彩の日記

フリーランスと意味の自由

2019年10月03日 | お仕事日記
15年前、24歳のころに視野に入れはじめ、10年前、28歳のときにフリーランスで生きていく道を選んだ。

頭の中にあることを言葉にしてみるシリーズ、今回は当事者としてあらためて、わたしにとってのフリーランスってなんなのかを言葉にしてみる。

10年前よりだいぶ一般的になってきて、noteでもフリーランスに関する記事をたくさん見かける。フリーランスの専門家ではないのですべてを読んでいるわけではないけれど、読んできた記事の多くは、当事者であるわたしにとって部分一致で全体不一致。つまり、わかるわかる、と首がもげそうになることもあるのだけど、読後感としては「な〜んか違うんだよな。なにかが大きく」というところなのです。

たまたま読んだ記事が全体不一致だった要因は、フリーランスがファッション化したことによるものなのではないかと思っている。ファッション化しているというのは、本来、手段であるはずのことが目的化し、なおかつ容易に身に纏えるほど軽量化し、デフォルメされて本質を見失い、そう見えさえすればいい見た目偏重(ルッキズム)に傾倒しているということだ。そういう気配を感じる。

たとえば、新卒フリーランスっていう発想とか「それファッションだろ普通にやめとけよ」って思う。なんかちょっとかっこいいみたいな風潮があるからそういう選択をする若い皆さんがたいらっしゃるんじゃないかと推測(邪推ですかね?)するんだけど、全然かっこよくない。無謀だ。どこでもいいから就職してちょっとは組織で磨り減ったり組織の論理的理不尽を肌で感じたりいろいろ最低限の当たり前を教えてもらったりしたほうがいいよ(ごく一部の天才を除く)。1年でもいいから。知らんし好きにすればいいけどね。

あと、フリーランスは社畜の対義語ではない。会社で社畜という意識になっちゃう人がフリーランスになったら、末路は保障のない社畜だと思う。フリーランスって、二次元的三角形ヒエラルキーにおいては下請けの末端ですからね。したがって、フリーランスの立場で会社づとめの人を「社畜」とかって揶揄したりするのは、もう勘違いも甚だしいし外道もいいところです。フリーランスがみんなそんな勘違い外道だと思われるといやなので、そういう言説の流布まじ一掃したい。これは好きにしてもらっちゃ困る。

同じことですが、フリーランスになれば社畜状態から逃れられる。フリーランスは社畜より上、とか思ってフリーランスに憧れたりなろうとするのもなにかが大きく違う。フリーランスは会社でやっていけない人の(あるいは脳内における)逃げ場でもファンタジーでもない。

あるとき、ベースは派遣OLでアルバイトでクリエイター活動をしている人が「フリーランスです」とか言ってる場面に遭遇したりしたことがあった。真横で目をまん丸にして腹の中で地鳴りのように「違うだろ」って突っ込むしかなかった。オペラのクライマックスレベルの大音響を、腹の中におさめるのが大変でした。フリーランスは自分の仕事に誇りを持てない派遣OLのテイのいい着ぐるみでもない。

スタバでMacBook開いたり、WeWorkとか話題のコワーキングスペースでラフな格好して仕事したりしてるからってそれがどうした。そんなものが自由なんかであるはずがない。逆に「あなたさまは本当に会社員でいらっしゃる?」と首をかしげすぎて体ごと倒れそうなほど自由を謳歌しているように見える会社員を何人も知っていますし、「自由とは給与所得者の夏休みだ」と叫びたい。

どうしよう、大門未知子とわたしに謝れ祭りみたいになってきた。どうやらわたしは、フリーランスのファッション化に、怒っているようです。

なんだどうした、わたしは違う、とでも言いたいのか?と自分で自分に問うてみると、

どうやらその通りのようです。言いたいんです。ファッションでやってるんじゃなのですよ。

ここで、社会人5年目(それから、両手では数えられないぐらい時間が経った)のわたしが書いた文章をお届けします。

大学生のころ、こんなことを思っていました。
「風がある日はウィンドサーフィンをして、
波のある日はサーフィンをして、
どっちもない日は素潜りをして、生きていきたい。」
毎日毎日、そういう生活をずっと続けたら、快楽に倦むどころか、生きることへの学びを深めて、とびきりステキな大人になれると信じていました。
全日本学生ボードセイリング連盟の選手として、ウィンドサーフィンに明け暮れる毎日の中で、海や海の仲間から、言葉にならない多くのことを学んでいた頃のことです。
そうこうするうちに時は流れ、大学卒業とともに、あっけなく経済大国ニッポンのあらがえない渦に巻き込まれていきました。それも、かの有名な「ロストジェネレーション」として。
一番になるために営業成績の数字を追いかけたり、記事制作の締め切りに追われたり、時間やお給料と戦い、海では出会い得なかった人々に出会う中で、さまざまな情報が、頭と心を行き交い通り過ぎていきました。外からの膨大な刺激にさらされて、多くの「疑問」や「悩み」や「憧れ」や「つかの間の信念」が浮かんでは消えていきましたが、社会に出て5年が経ってなお残ったのが、どうしてもなくならない、しぶとい2つの願い。この2つの願いに、徹底的に向き合うために、私は今、働いているのだと思います。
その願いとは、「もっと地球と上手につき合える人間でありたい」ということ。
そして、「自分も含めたすべての人に人生に根付いた仕事をしてほしい」ということです。この2つをまとめると、「人間と自然が大切にされる社会にしたい」ということになります。
私自身は、海と交わる日々を通じて、風や波と調和し自然とひとつになれた時の深い幸福感や、宇宙の摂理でいとも簡単に私たちをもてあそぶ風や波という自然への畏怖を知りました。自然を「対象」としてではなく自分の一部として、自分を自然の一部としてとらえる感性が刷り込まれてしまったので、私にとっての人生に根付いた仕事のテーマは、人間の自然との関わりなのです。
フリーランスとは、「意味の自由」を手にするための手段
「社会に出て5年経ってなお」だなんて、たった5年でずいぶん長く労働市場で過ごしてきたような言い方しちゃって。幼くて可愛いですね(笑) 

実は、この文章のことをふと思い出し、前のブログから掘り出して読んだことがこの記事を書くきっかけになりました。

おろどいたのです。ここから十ウン年経っているというのに、あまりにも変わっていないことに。

そして思いました。

真面目に内なる願いにしたがって生きるために、そして自分にとって大切な自分の感性を守るために、フリーランスという手段であり状態を選び続けてきた。その狙いが、なんと成功しているではないか。

成功しているのは、「こうしたい」という世界観があって、それは厳密には自分だけのもので、その自分が「世界観をつくるのに意味がある」と思えることだけをしてきたからだと思います。それを可能にしたのが、フリーランスという手段がもたらす意味の自由でした。

・毎日、決まったオフィスに行かない場所の自由
・いつどのくらい働くかを誰かに決められていない時間の自由
・固定化された人間関係にとらわれない、一緒に仕事をする人を選べる人間関係の自由
・これらすべてによる精神の自由

4つの自由は、自分で自分の働く意味・生きる意味を紡ぎ出すため、すなわち「意味の自由」のための余白です。

真面目だなと、われながら、思います。
時にはパジャマのまま仕事をしていても、信念や社会に対して真面目。
自分の全体性や主体性に対しても真面目。

そういうわけで、とどのつまりは、フリーランスは気ままで自由、会社員は真面目で勤勉とか、そういうよくあるカテゴライズ&ジェネラライズ&ラベリングの3点セットではくくれないものなのかなと思います。3点セットが便利なのはわかるけど、いちど固定化させてしまうと、そこから新しいものの味方、働き方は生まれないと思います。

フリーランスが増えてきた、といってもマイノリティであることには変わりない中、フリーランス多様性の表出や、個々のフリーランスへの理解の解像度を上げる一助になれば幸いです。

さらには、「働き方改革」という名の「働かされ方改革」が進行中ですが、より本質的な「働く意味のイノベーション」の一助となればこんなに嬉しいことはありません。


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