エバレットさんの読経の話から、なぜか会社員時代に上司が言い放った衝撃の一言に展開してしまった
前回。
「カネはあった方がいいぞ、浅倉」という悪魔のささやきに、今の私なら、禅問答をふっかけていたと思う。
こんな話がある。
ある南の島に、一人の漁師が住んでいた。
漁師は毎日、島の人たちが買いに来る分だけ魚を捕り、
それを売ったお金で必要なものを買って生活していた。
そこに、海の向こうから投資家がやってきて、こう言った。
「もっともっと魚を捕るのだ」
漁師は不思議そうに答えた。
「そんなに捕ってどうするんです?捕ったって、食べきれませんぜ。」
「この島だけでなく、他の島にも売りに行くのだ。」
「それで、どうするんです?他の島には、他の島の漁師がいますぜ。」
「そいつらよりも安く売って、カネを稼ぐのだ」
「カネを稼いでどうするんです?」
「そのカネで大きな船を買って、もっとたくさん魚を捕るのだ」
「そんなに捕ってどうするです?」
「もっと遠くまで売りに行き、もっとたくさんカネを稼ぐのだ」
「そんなにカネを稼いでどうするんです?」
「南の島に家を買って、のんびり暮らすんだ」
「だんな、自分はもうそれをしてますぜ」
「・・・・。」
その頃はまだ、この話も知らなかったし、空を見上げて地球と二人きりの対話をすることも、
その先にある答えも知らなかったから、私は何も答えられなかった。
ただ、直観でこう思った。
「だめだこりゃ。このバブルが忘れられない大人たちには、私が『自給自足』みたいな
雑誌をつくりたい、と言う真意は伝わらない。何か大きくて長いものにまかれてしまっていて、
全く話が通じない。この人たちは、権力を使ってカワイイ庶務さんを雇って隣に座らせたり不倫したり、
稼いだお金で銀座のクラブ遊びをしているのがせいぜいなんだ。」
今なら、
「カネはあった方がいいぞ。あさくら」
と言われたら、
「なぜですか?」と質問すると思う。
彼らはなんと答えただろうか?
さすがに、
「カネがあると、銀座のクラブで遊べるんだ」とは言わなかったと思いたいけど。
読経や瞑想や、ただ空や海を眺めてボーーーっとする時間は、たとえば、
カネはあった方がいい、と当たり前のように思っていたけど、
本当にそうだろうか?あった方がいいというけれど、
どれくらいあったらいいのだろうか?
カネがあると、どんないいことがあるんだろうか?
スーパーカーが買える?毎日高い食材が食べられる?
それで幸せになれる?
月に10万円?いや、それでは足りない。ではいくら?
なんていうふうに、当たり前だと思っていたことを見つめ直す時間なのだ。
いつのまにかはめられていた枠を壊して、視野を宇宙にまで拡げるための大切な時間。
その上で、今自分がしている行動が宇宙の摂理に適っているかを、自省する時間でもある。
そうして宇宙の視点で自分を眺めてみると、ただただ、生きていることの奇跡に感動する。
気持ちは自然に前向きになり、「今日、私にできる、目の前にあることをせいいっぱいやろう」と思える。
不思議なもので、それまでバリバリ稼いでいた人が、
大病や逮捕をきっかけに、突然、環境問題に目覚めたりする。
そういう人を、何人も知っている。
きっと、病院のベッドの上で、刑務所の檻の中で、
考える時間がたっぷりあったからなのだろうと思う。
ブラウンズフィールドの暮らしには、病に冒されたり犯罪を犯すまでもなく、
宇宙と対話する静かな時間がたくさんあった。
みんながそういう時間を持つことの大切さを知っていて、
意識的に持つようにしていた。
そして、自然に囲まれた場所には、宇宙に思いを馳せるきっかけが
コンクリートジャングルとは比べものにならないくらい、あふれていた。
長くなったので、つづきはまた。
前回。
「カネはあった方がいいぞ、浅倉」という悪魔のささやきに、今の私なら、禅問答をふっかけていたと思う。
こんな話がある。
ある南の島に、一人の漁師が住んでいた。
漁師は毎日、島の人たちが買いに来る分だけ魚を捕り、
それを売ったお金で必要なものを買って生活していた。
そこに、海の向こうから投資家がやってきて、こう言った。
「もっともっと魚を捕るのだ」
漁師は不思議そうに答えた。
「そんなに捕ってどうするんです?捕ったって、食べきれませんぜ。」
「この島だけでなく、他の島にも売りに行くのだ。」
「それで、どうするんです?他の島には、他の島の漁師がいますぜ。」
「そいつらよりも安く売って、カネを稼ぐのだ」
「カネを稼いでどうするんです?」
「そのカネで大きな船を買って、もっとたくさん魚を捕るのだ」
「そんなに捕ってどうするです?」
「もっと遠くまで売りに行き、もっとたくさんカネを稼ぐのだ」
「そんなにカネを稼いでどうするんです?」
「南の島に家を買って、のんびり暮らすんだ」
「だんな、自分はもうそれをしてますぜ」
「・・・・。」
その頃はまだ、この話も知らなかったし、空を見上げて地球と二人きりの対話をすることも、
その先にある答えも知らなかったから、私は何も答えられなかった。
ただ、直観でこう思った。
「だめだこりゃ。このバブルが忘れられない大人たちには、私が『自給自足』みたいな
雑誌をつくりたい、と言う真意は伝わらない。何か大きくて長いものにまかれてしまっていて、
全く話が通じない。この人たちは、権力を使ってカワイイ庶務さんを雇って隣に座らせたり不倫したり、
稼いだお金で銀座のクラブ遊びをしているのがせいぜいなんだ。」
今なら、
「カネはあった方がいいぞ。あさくら」
と言われたら、
「なぜですか?」と質問すると思う。
彼らはなんと答えただろうか?
さすがに、
「カネがあると、銀座のクラブで遊べるんだ」とは言わなかったと思いたいけど。
読経や瞑想や、ただ空や海を眺めてボーーーっとする時間は、たとえば、
カネはあった方がいい、と当たり前のように思っていたけど、
本当にそうだろうか?あった方がいいというけれど、
どれくらいあったらいいのだろうか?
カネがあると、どんないいことがあるんだろうか?
スーパーカーが買える?毎日高い食材が食べられる?
それで幸せになれる?
月に10万円?いや、それでは足りない。ではいくら?
なんていうふうに、当たり前だと思っていたことを見つめ直す時間なのだ。
いつのまにかはめられていた枠を壊して、視野を宇宙にまで拡げるための大切な時間。
その上で、今自分がしている行動が宇宙の摂理に適っているかを、自省する時間でもある。
そうして宇宙の視点で自分を眺めてみると、ただただ、生きていることの奇跡に感動する。
気持ちは自然に前向きになり、「今日、私にできる、目の前にあることをせいいっぱいやろう」と思える。
不思議なもので、それまでバリバリ稼いでいた人が、
大病や逮捕をきっかけに、突然、環境問題に目覚めたりする。
そういう人を、何人も知っている。
きっと、病院のベッドの上で、刑務所の檻の中で、
考える時間がたっぷりあったからなのだろうと思う。
ブラウンズフィールドの暮らしには、病に冒されたり犯罪を犯すまでもなく、
宇宙と対話する静かな時間がたくさんあった。
みんながそういう時間を持つことの大切さを知っていて、
意識的に持つようにしていた。
そして、自然に囲まれた場所には、宇宙に思いを馳せるきっかけが
コンクリートジャングルとは比べものにならないくらい、あふれていた。
長くなったので、つづきはまた。