この前、イメトレの生徒さんの1人から、創造する人は忘却の才能があると聞いた。
確かに、膨大な知識や情報がいつも頭のデスクトップみたいなところにおいてあるとそれを整理するだけで頭がフリーズしてしまい、どんどん新しいことを思いつくところまで行かないだろうし、あるいは正確な知識を沢山きっちりと覚えすぎているとそれに拘束されて自分が新たに何かを作り出すことがしにくくなるだろうことなど、いろんな理由をすぐに考え付くくらいだから結構説得力がある。
かのアインシュタインがあるとき光の速度を聞かれて答えられなかったというのは有名な話だ。いわく、「書き記しておけば分かるようなものを頭の中に残しておいても意味がない。」とかいう話だったと思う。これは上で書いた話だと後者にあてはまる。彼はいつも頭を軽くして、クリエイティブなことがしやすい状態にしておきたかったに違いない。
本当の賢さとは間違いなく新たな物を生み出したり、未知の問題を解決する創造力を含むものであり、この創造力は知識の多さや記憶力の良さとはイコールではないのだ。むしろクリエイティビティは、忘却の才能と強くリンクしている。
分かりやすくいえば、これまでの思考の枠組みから自らを解き放つ、「馬鹿になれる能力」が本当に賢さを得るために必要というある意味逆説的な面があるということだ。
一方で、世間というのはとかく、沢山物を知っている人や、記憶力のいい人こそが賢いと思いがちなのではないだろうか。
こういう「頭いい」観には昔から抵抗がある。そんな、コンピュータでもできることで単純に人の賢さを測るのはいかにもつまらないことであると思うのだ。
「頭がいいやつ」が意外に歴史に名を残さないことのゆえんの1つはここらへんにあるのではないだろうか?科挙(中国の官僚登用試験)に受からなかった杜甫が1300年近く経った今もその名を残し、当時受かった者たちで名を残すものがいないのが良い例である。
とはいえ、じゃあ健忘症になればいいというようなものでもなく、必要に応じて本質的なことだけは思い出せるようになっていなければならず、ことはそうそう単純でもない。
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