中学生のとき、アインシュタインのE=mc二乗の式についての本を読みました。
物質には、質量×光の速度の二乗のエネルギーが含まれているということです。
このエネルギーが解放されてしまったために、人類は核という、途方もないものを得てしまいました。
この本を読んだときに思ったのが、このような膨大なエネルギーをちゃんと扱えるようになるには、人間の中にもともと存在している途方もない可能性を解放する他ないのではないか、ということでした。そうでないとバランスが取れない。こういうことを中学のときの作文に書いて提出したことを覚えています。
そして今していることを考えると、この中学時代の思いをいつのまにか追求していることに気がつきます。
人間の中には、どう考えても、途方もない可能性がどの人にも存在しているのだけれど、ほとんどの人は、この可能性をのびのびと活かすということができていません。
自分の内なる可能性を開く鍵のありかが分かっていないためです。この可能性が生かされる場面、時間が増えれば増えるほどに生を全うできるはずですが、この可能性を解放する鍵を見つける人はほんの一握りです。
この鍵はあたかも、莫大な財産としての価値のある宝石箱の鍵のようです。これを開けられれば、人生猛烈に面白くなるに違いありません。ただ、細かいことは書きませんが、大人の場合、この宝石箱は同時にパンドラの箱としての性格も持っていて、不用意に開けるわけにもいかないという事情もあります。
最近では人にお会いしたときに、いちいち、その人の可能性のきらめきを感じるようになりました。
反面、せっかく可能性を持っているのに、それを生かせていない場合には、とても残念な気持ちになります。何か、カサブタがついているような感じです。でも、カサブタには役割があって、不用意にはがすことはできないのです。