本の感想は普段の丁寧口調では書きにくいので普通の書き言葉で書きます。
村上龍氏は、最近「無趣味のすすめ」という本を出した。どうも、文章、論理のキレが悪いが、選んだテーマはいいので感想を書きたくなった。まずは、本の表題にもなっている、「無趣味のすすめ」についてである。
この中で村上氏は、
「私は趣味を持っていない」と述べた上で、
「現在まわりに溢れている「趣味」は、~~中略~~考え方や生き方をリアルに考え直し、ときには変えてしまうというようなものではない。だから趣味の世界には、自分を脅かすものがない代わりに、人生を揺るがすような出会いも発見もない。心を震わせ、精神をエクスパンドするような出会いも発見もない。真の達成感や充実感は、多大なコストとリスクと充実感を伴った作業の中にあり、常に失意や絶望と隣り合わせに存在している。」
と言い切り、「趣味」というもの自体を否定するような言いようである。
しかし、まずは、真の達成感や充実感が得られるもの以外は意味がない、という、この文章の論理の前提となっている考え方自体非常に偏っていると思う。
人生において、真の達成感や充実感だけが価値ではないのは分かりきっている。リラックスも、気分転換も、もちろん人生において大切な要素であり、これらは趣味によって得られるものだ。だから、趣味の世界でそういうものが得られないからといって、それで趣味の存在そのものを否定するのはまったくの暴論に過ぎないというべきだろう。
第一、趣味の定義にもよるかもしれないが、趣味の延長線上には間違いなく芸術も含まれるだろう。芸術は、芸術家以外にとってはたいてい仕事とは言えず、趣味の部類に入る。そして素晴らしい芸術には、村上氏の言葉による「心を震わせ、精神をエクスパンドするような出会いも発見も」、間違いなく存在する。
更には、じゃあ、読書はどうか、という話になってしまう。
本を読むのは、村上氏のような文章を書くプロにとっては仕事であろうが、その他の人たちにとっては明らかに「趣味」である。
村上氏の論理に従うのなら、
「読書の世界には、自分を脅かすものがない代わりに、人生を揺るがすような出会いも発見もない。」となってしまうのだ。
とするなら、村上氏は、自らの作家という職業自体を否定しかねない発言をしていることになる。
趣味にかぎ括弧をつけて、「趣味」と表現しているから、読書を除いているということなのかもしれないが、どの範囲の人間の活動が、村上氏の言う「趣味」なのかはさっぱり趣旨が不明確である。
ここのところ、村上氏の表情は、固く、暗い。明るくしゃべっているときですら、その奥のほうに果てしない欝がありそうな雰囲気である。若かりし頃の、はちきれんばかりのエネルギーが感じられず、頭の固いおっさん風になってきたと最近思っていたが、文章まで、思い込みの激しい、バランスを欠いたものになってきたことには、外見と中身は結構一致するのだな、という感想さえ抱く。
もちろん、極論を世の中に投げかけて問題提起しているのかもしれないが、そういうニュアンスはどこにも顕われてないから理解しようがない。
カンブリア宮殿で、日々「当事者」として頑張る企業オーナーたちの話などを聞きすぎて、ある意味傍観者的な自分のアイデンティティに、自信を失いつつあるのではないかとさえ勘ぐってしまう。
カンブリア宮殿で、スズキ自動車の鈴木社長が農家出身者の特徴であるごつごつした自分の手を、「あなたたちのような都会の人とは違う。」と言われたときの村上氏の存在感はいかにも薄かった。