シンクロニシティ & etc.

日々訪れるシンクロニシティの意味の探求と、「青天井」な人間力向上の追究、その他いろいろなことについて。

自社の商品を愛しているか?

2010-04-29 00:34:33 | 気づき

 今の消費者は非常に厳しい。

 だから、社長が自社の商品を愛しているかどうかなんていうことはすぐに見抜くものだ。

 そして、販売している会社の社長が愛していない商品には、消費者も愛情を感じないのが普通である。

 従ってこれからは、本当に自分が愛せる商品だけを扱うのがもっとも効率が良いということになると思う。

 社長が自社の商品を単なる金儲けの材料として考えるやり方はもう通用しないのではないだろうか。そういう、好きでもないものを取り扱う、ある種の軽薄さを消費者が見逃さない時代に突入したのだと思う。

 やはり自社の商品への愛情を、情熱を込めてとうとうと語るくらいでないと、仮にいっとき儲かったとしても、長続きするビジネスにはならないのではないだろうか? 


トンビと太陽

2010-04-25 20:02:16 | Weblog

 
 太陽が雲間から出てきたので写真を撮ろうとした瞬間、目の前を一羽のトンビが通り過ぎた。

 この日たった一度だけのシャッターチャンスを捉えることができたのは幸運である。

 この時間に私がここに立っていたのも偶然、トンビがこの位置、この羽の形のときに撮れたのもまた偶然である。

 自然はこんな風に、時折私たちに気まぐれなプレゼントをくれる。


決断こそが人生のリアリティ

2010-04-25 00:16:22 | 気づき

 決断というトピックについて書いてきたが、今日また決断ということについて新たな発想を得た。

 それは、自分の人生について決断を下し、それに基づいた行動を取ることこそが人生の醍醐味であり、それによって人は生きているリアリティを得られるのではないかということだ。

 自分の人生について人に決断を丸投げしてしまうと、他のどんな刺激があったとしてもリアリティは薄くなる。

 前に、自らが属する国や地方公共団体の政治やあり方について自分が何らかの形で参加していると思っている人ほど幸福感があるというようなアンケートを見たことがある。

 これは、自分が所属する集団ないしコミュニティのあり方について決めることは、自分の人生を決定することに間接的につながっているため、そういうことになったのだと思う。

 人は、自分のことを自分で決めるということがどれほど大きなことなのかを自覚しなければならないと思う。

 人はついつい楽をしたがる生き物であり、この作業から逃げてしまうことがままある。しかしそれをした途端に、生きているリアリティから切り離され、自分が生きているのか死んでいるのか分からないような精神状態になってしまうということを常に警戒すべきである。 


決断しないと成長しない

2010-04-22 21:21:37 | 気づき

 人は、決断から逃げたり、あるいは他の人に決断をゆだねているうちはなかなか成長できない。

 なぜなら、自分で決断し、それに従った行動をした結果を見てフィードバックする作業なしに人は成長しないからだ。

 これは自立的に学習するプログラムのことを考えればあからさまな話だ。

 こういうプログラムは、入力に対する結果をフィードバックすることによって入力を修整していくものだ。

 つまり、何かを入力して、それによって良い結果が得られればその入力は正しいということになり、間違った結果となれば、その入力は正しくないということを学習して次からは別の決定をし、入力する。

 人間の脳もそれとまったく同じプロセスにより成長していく。

 何かを決定して、それに沿った行動を取ることによって得られた結果をフィードバックすることによって、その決定の正誤を判断することができ、成長していくのである。

 だから、決断をしなかったり、あるいは自分で決断をしないで他の人に決断を委ねることというのは、すなわち自らの成長の機会を放棄することになるのだ。

 楽をしようとか思って自分で決断をしないでいると、人生において最も大切な、自分の成長の機会を放棄することになり、結局それ自体で大きな損失であることを認識しなければならない。


決断は運命を変える

2010-04-21 23:54:35 | 気づき

 自分の周りで「決断」をする人が増えている。

 何かを自分で決断する。

 それは、自分が依存している人からの独立を意味することが多い。

 だからそれは摩擦を起こすこともある。

 しかし、私が観察したところによると、決断をした後の運命は結構いい方向に進むことが多いように思う。

 決断をし、自立をする人に運命の女神が微笑むというのは自然の理であるように感じる。


耳が変わってきた!

2010-04-20 12:10:07 | 青天井な能力開発

 傳田先生のビューティリスニングを聞き終わってから2週間経過したが、この前近くの公園を歩いていたときに、自分の聴覚が大分変化していることに気づいた。

 前を歩いているカップルが細かい砂利を踏む「シャリッシャリッ」という音や、鳥のさえずりなどが耳に飛び込んでくる感じがすごく新鮮で楽しい。何か子供の頃の、全てを新鮮で生々しく捉えることができた感覚に戻ったような印象である。

 やはりこれは傳田先生が主張されている聴覚の偏りが取れてきているに違いない。

 直後にそれほど感じなかった変化が今来ているのは不思議な感じがする。

 早速、日本人のギター演奏と、西洋人のギター演奏を比較してみることにした。

 曲は”Alhambra”。

 http://www.youtube.com/watch?v=64S1Pwor5lM

 そして、

 http://www.youtube.com/watch?v=RLHR8zaEsA8

 うーん。これは日本語で偏った耳(傳田先生はどの言語も、聴覚を偏らせるという)でも分かる違いのような気がするがどうだろう。

 楽器の違いもあるけど、これだけ違えば十分。

 村治のはまさに日本人的。私はこういう演奏は退屈過ぎて聴いていられない。お経を聴いてるときのような印象。日本のクラシック全般に感じることだ。後の外国の人のはクレイジーな高周波が沢山入っていて非常に活性化する。 

 普段誰でも同じと思っている耳が、育った言語圏や、年齢などによって全然違ってくるということは、自分の耳が短い時間で変化して初めて分かる、実に不可思議なことだ。


宿便取り→ローフードの順番が最適

2010-04-20 11:21:14 | 食事による能力開発

 ローフードについて思うのが、これだけだと宿便が取れるのにはかなり時間がかかる場合があるということ。

 最初から少なければ良いが、宿便が多い場合、ローフードの酵素等の力によってそれが除去されるのに長いときで何年もかかる人が出ると思う。

 というのは、日本のローフードとも言うことができる甲田式でもすぐ宿便が出てしまう人と、延々1年以上出てこない人もいるからである。非常に厳格な少食の甲田式でもなかなか出ないくらいだから、沢山食べてもよいローフードではなおさら長い時間がかかることが予測される。

 そのため、ローフードの威力を最初から味わいたいのであれば、最初の時点でどうにかして宿便を取り切ってしまうのがベストであると思われる。


経験から学ぶが、経験に支配されもする

2010-04-19 11:37:59 | 気づき

 人間というのは、日々の具体的経験から学ぶものである。

 具体的体験から得られる、具体的な経験則を積み上げて、個々の思想を組み上げるというのは大変まともなやり方だ。

 しかし、それだけでは問題がある。

 というのは、個々の具体的体験というのは、具体的であるがゆえに、ミクロマクロで言うとミクロ的な体験であることが多く、これだけに頼ると、マクロな視野から物を見ることができなくなるからだ。

 その状況は、経験というものに支配されているということができるだろう。

 そこで非常に重要となってくるのが、自分が経験に裏付けられた考え方を獲得してはいるが、同時に経験によってある種の「思考の歪み」も獲得しているということを自覚することだ。

 こういうある種の「無知の知」を持つことによって人は、経験による支配から脱することができるはずだ。

 抽象的な話になったが、例えば、営業マンとしてバリバリに鍛えた人で説明する。

 こういう人というのは、具体的な営業の世界での血と汗と涙の結晶としての一種の悟性に至るのだが、そこでそれがあまりにもはっきりとした真実であるがゆえに、その悟性によって支配され、仕事というものに営業以外存在しないのだ、くらいの感覚になってしまう危険があるのだ。

 しかし、上記のような「無知の知」的スタンスを持つなら、その悟性は自分の思考を歪ますことなく、その価値をフルに発揮することができるだろう。

 なんだか他人ごとのように書いているが、これはもちろん私にもあてはまるから、私が自戒の気持ちを持っていることは言うまでもない。


ボキャブラリーの偏り=個人言語

2010-04-18 12:58:33 | 気づき

 5年くらい前から気になっていたが、人にはそれぞれ使用するボキャブラリーについて偏りがある。

 極端な例だが、私の知っているある人は、何かがいいと思うときには「素晴らしい」しか使わない。ワンパターンなのだ。

 他にも、「かわいい」しか言わない人なんかも沢山いると思うが、ここまで行かなくとも誰にでも、程度の差こそあれ、使用するボキャブラリーに偏りがある。

 そういう立場から自分の普段言ってることが偏っているという前提で人の話を聞くととても新鮮だ。

 私が使わないボキャブラリーが沢山使用されていて、まるで外国語を聞いているような気持ちになることができる。

 そう。

 言葉は、細かく観察すれば日本語とか、英語とかの大きなくくりとは別に、各個人というくくりによって個別の言語として分類することができるものなのだ。

 「個人言語」、とこれを名づけることにした。

 英語圏の人と仲良くしようと思ったら英語、フランス人ならフランス語をマスターすべきであるのと同じく、ある特定の人と仲良くしようと思うなら、その人の、個人言語=「偏ったボキャブラリー」をマスターするのが早道だ。

 また、各人の個人言語は、世界のいろいろな言語と同じく、その人の育った環境、文化、価値観、思想、信念等を如実に反映するものだ。

 だから他の人の個人言語を分析することによって、その人の脳の中をより早く理解することができるようになる。

 例えば、「すごい」という言葉を連発する私は「すごい」ものが好きだ。いつも言ってるから間違いない。

 また、質的な形容詞を連発する人は「違いが分かる人」であるかもしれないし、量的な形容詞を連発する人は「質よりも量重視の人」なのかもしれない。

 ワンパターンな言葉を繰り返す人は、もしかしてワンパターンな思考回路の持ち主かもしれない。

 などなど、とにかく個人言語は面白い。これからそういう観点で人の話を聞くことにする。 


やっぱ明るくないと・・・

2010-04-17 12:23:54 | 気づき

 あまり今まで「明るい」というボキャブラリーを使った記憶がないが、これが大事だと、ここのところ思う。

 別に無理に明るく振舞う必要はない。

 明るくするには、楽しいことを考えればいい。

 楽しいことを考えれば、自然と明るくなるものだ。

 教育も、対象となる人が明るくなるように行うのが肝要だと思う。明るくなれば、持続性が出てくる。

 たまに叱ることも大切だとは思うが、明るさを奪うところまでやってしまうと、生きる原動力自体なくなってしまう。

 褒めて人を明るくするのも良いことだと思う。褒めるとだらけるという話をよく聞くが、ハードルを上げればだらけはしないものだ。

 明るくなれば、身体の全ての機能が正常化する。暗いと、いろんな病気になりやすくなるのもこれまた間違いないだろう。