真実や真理というものが、なぜ直接的に語られることが少ないのかについて考えてみた。
これについては、まずもって真実や真理というものは、そのまま出したのでは誤解されるリスクが非常に高いということではないかと思う。真実や真理というのはそもそも大変シンプルなものだが、これをそのまま示されてもそうそう理解はできない。むしろ誤解してしまいやすいのだ。多くの人は、物事の表面しか見ないから、その背後にある真理・真実を言われてもピンと来ない。また、物事というのは見る角度によって違ってくるものだが、いろいろな角度から物事を観察できる人も少ない。
例えば数年前、私は京都の青蓮院というところに貼ってあった、「ハイ、という素直な心」と書いてあるのを見て「ほら、やっぱり素直なのが一番。」とそのとき一緒に行った人に言われたが、これに対して「これは支配者の発想でしょう。みんながハイという従順な人なら支配しやすい。だからわざわざ紙に書いているんだ。」と私は言い、とても変な顔をされた。今から思えば、こういうときはわざわざそんな身も蓋もないことをいきなり言うこともない。そういう考えは余程頭が柔らかい人以外には言わない方がいいに決まってるのだ。
また、真実・真理だからこそはっきりとは言ってはいけないことも沢山ある。真実や真理は、人々の共同幻想や、支配者が強要する幻想と矛盾することがかなりある。「王様は裸だ!」は基本的に危険なのだ。また、真実だからと言って、それを口にしたのでは人を傷つけることも沢山ある。今日、私は、ある小さな喫茶店に、露骨にカツラなオジサンが来て、出て行ったあとに「今の人、ヅラですよね。」と言いたくなったが、我慢した。今までなら必ずそれを口にしていたが、今日はそれを黙ってみたのだ。そしたら、何か新しい感覚が生まれた。何かこう、人への温かい気持ちのようなものだ。
以上のような背景のもと、真実や真理というものは、あからさまに語らず、隠すべき場合が結構あるものなのだ。
何でも言えばいいってものじゃないってこと。
こんなの当たり前とお叱りを受けるかもしれないが、私にとっては結構、繰り返し確認すべき重大事だ。