シンクロニシティ & etc.

日々訪れるシンクロニシティの意味の探求と、「青天井」な人間力向上の追究、その他いろいろなことについて。

多重に存在するファクター

2006-08-29 16:41:06 | ちょっとした話題&日々の出来事

 物事についての説明というのは、中途半端になされると、いろんなことを捨象してしまう危険性をはらんでいます。

 例えば、人の性格を血液型で説明するときがその典型的な例の一つです。

 「あの人って、~だよねえ。やっぱ、B型だから。

 とかいう説明。

 これが実に危険なんです。

 仮に血液型が人の性格に影響を及ぼすとしても(私は及ぼすと思う立場)、人の性格が血液型だけで決まるはずがないんです。

 育った場所、生まれた時代、親がどんな親で、どんな育て方をしたか、兄弟はどんな兄弟か、どんな学校を出たか、などなどの、いくつものファクター(要因)の重なり合いによって人の性格が決まってくることくらい、誰だって知ってるはずなのです。

 なのに、結構こんな乱暴な説明をしてしまいがちなんですよね。

 このように、人は、一元的理由を常に探したがる傾向があります。その方が論理がすっきり見えるからです。

 ここに落とし穴があると思います。一見論理的な説明が、事象を正確に理解することを妨げてしまうのです。物事はたいていいくつものファクターの重なりによって起きるものなのに、それがたった一つのファクターで決まってしまうかのように誤解してしまうのです。

 偏見の芽も、こういう説明から生まれることが多いです。
 「あいつは~だから、~なんだ。」という例を挙げるまでもないでしょう。

 こういう思考にいったんはまるとひどいことになります。何を説明するにしても、とにかくいろいろな理屈をこねくりまわして、とにかく最後は自分が信じる一元論によって強引に説明してしまうわけです。そしてその乱暴な論理をふりかざしている本人もその強引さに気づかない状態です。

 とにかく、視野を広く持ち、他にもファクターがいっぱいあることに目を開くべきではないでしょうか。

 いつものように、これも自戒の意味を込めて書いています。


調子に乗ってみよう

2006-08-28 22:00:50 | ちょっとした話題&日々の出来事

 調子に乗るな、というのは良く聞きます。 

 でも、調子に乗るのって本当は大切なことではないかと思います。  だって、ただでさえ、へこたれることが多いから、調子に乗れるうちは乗っておいたほうが前に進めるのではないかと思うからです。

 特に、うつ傾向のある人にはオススメ。ぜひ調子に乗ってみましょう。

 さて、人間どうやったら調子に乗れるのか?  やっぱ、好きな食べ物食べるとか、好きな曲を聴くとか、自分の得意なことをやるとかですかね。

 とにかく、頭の中で調子に乗るのは自由です。

 それを外に出すのはいろいろと弊害あるでしょうから、自分の心の中で調子に乗って楽しむ、というのはいかがでしょう?

 もちろん、こういうのもバランスで、調子に乗りすぎていて、しかも周りにそれを振りまいているような人は、近い将来足元をすくわれるかもしれないのでほどほどにしておきましょう。

 自覚があれば、大丈夫だと思います。自覚全然ないと、危ないですが・・・


自分という凹に対して、凸として起こる出来事

2006-08-27 02:38:51 | 気づき

 寝込んでいると暇なのでいろいろと考えます。

 そこで思ったのが、自分に起きる出来事は、全て、そのときそのときの自分のあり方に合わせた完全なカスタムメイドではないかということ。

 つまり、自分が凹な形をしていると、自分の外には凸な出来事、すなわちそのときの自分のあり方に完全にフィットした出来事が起きるということです。

 これを前提にして考えると、今まで自分に起きてきた出来事のひとつひとつが、納得が行くものとして思えてきます。

 そう、全てがそのときの自分にまさに必要な出来事だったに違いありません。

 あんなことや、こんなこと、いいことや、悪いこと、つらいこともあったけど、全てはそのときそのとき最も自分が必要としていた状況なのでしょう。

 そういう展開が、まさに自分らしい(自分に合った)人生へと自分を誘導しているに違いありません。

 そして、また、こんなことがわかると、自分の形、すなわちあり方、生き方を変えると、あっという間に自分の目の前に展開する現実も変化するであろうことにも気づきます。

 天網恢恢粗にして漏らさずって言いますけど、ホント、実にきめ細かく、しつこく(笑)、自分に起きる出来事は自分の生き方や心のあり方を反映してる感じがします。 


答えは自分の中に

2006-08-27 02:07:14 | ちょっとした話題&日々の出来事

 日々の雑事や、テレビ、人の言うことなど、自分の心の外にあることに目を向けすぎると、ふと自分の心の奥の方がすごく不快で窮屈な状態になっていることに気づくことがあります。

 自分が本当になりたい自分とか、やりたいこととか、話したいこと、考えたいこと、ではなくて、他の人が自分に望むこととか、他の人の欲望だとか、他の人の考え方や価値観に自分を合わせようとしている窮屈感。

 こんな風に、自分が外にあるものに関心を奪われすぎてペースを崩していると思うときは、私は一人になり、静かに自分の内なる声に耳を澄ますことにしています。

 そうすると、私は「私」を取り戻すことができます

 そして不思議なことに、外に関心が行き過ぎているときにはひしひしと感じる、世界から自分がたった一人切り離されているような孤独感が、自分の内側に立ち返って逆に消滅していることに気づきます。

 逆説的に聞こえるかもしれませんが、外側の世界と一体化するために、人は自分の内なる世界にアプローチする必要があるのかもしれません。 


パソコンについての兆しを無視した結果・・・

2006-08-26 22:21:36 | ちょっとした話題&日々の出来事

 7月の終わりごろに、弁理士会の旅行に行ったときに、旅館の部屋でなぜか、パソコンのバックアップの話になりました。

 で、せっかくの機会だからといろいろやり方などを聞いて、「そのうち」やろう、と思っていたのですが・・・

 やらないうちに1ヶ月近くが過ぎて、あのときの話が「サイン」だったことに気づきました。

 そうです。私のパソコンの調子がおかしくなってきたのです。で、急いで外付けハードディスクや、バックアップソフトを買ってきたのですが・・・調子悪すぎて全部バックアップできません・・・

 そうこうするうちにますます調子が悪くなり、それをなんとかしようと夜中までパソコンを何回もオンオフしたりして作業しているうちに、私まで調子が悪くなって風邪を引き、声が出なくなってしまいました。

 パソコンメールがままならなくて、声が出ないと、人に連絡するのも大変です。携帯メールで連絡できる人はいいのですが・・・

 なんとか実家のパソコンを借りてきて、メールはできるようになりましたが、思い返すと、本当に1ヶ月前のバックアップの話を聞いてすぐに実行すれば良かったと思うことしきりです。

 まさか話を聞いた後、こんな早く自分のパソコンが壊れるなんて思ってもみなかったです。

 今度から、こういうメッセージを逃さないように気をつけます。

 あのメッセージをきちんと捉えていれば、パソコンぼろぼろ、声ぼろぼろの今の状態にならないで済んだはずですからね。

 ちょっとした判断ミスが、未然に防げるはずの損害を大きくしてしまったわけです。

 このブログを読んだ方、これもサインかもしれませんよ・・・(笑)


ほとんど感情で動いている

2006-08-25 19:01:05 | 気づき

 サルについてのテレビとかを見ていると、彼らがかなり感情的に毎日生きていることがわかります。

 他の動物についてもしかりです。

 でも、私は最近、人間も他の動物たちほどではないけれど、かなり感情的な生き物だと思うようになりました。

 自分についても、実に感情的で、この感情というやつが実にやっかいな代物なわけです。

 自分についてはもちろん、他の人についても、この感情というものが発生する仕組みについて目をこらして、この不思議なものについて通暁することは、この人間という生物の社会を生き抜いていく上で必須であるように思います。


一生懸命やればいいってもんでもない

2006-08-24 14:17:25 | 気づき

 最近思うのが、

 「とにかく何でもかんでも一生懸命やる」というのが場合によっては正しくないということ。

 たとえば、人に対して何でも情熱的に、一生懸命アプローチしたりすると、相手にとっては暑苦しく、対応が面倒な存在だと思われたりします。あるいは、「どうしてこの人こんなに一生懸命なんだろう?何が魂胆なんだ?」と怪しまれてしまうこともあるでしょう。

 むしろ、手抜きってわけではないけど、適度にゆるいアプローチの方が喜ばれることも結構あるものです。相手の方もリラックスできますよね。

 こういうのって、人に対するアプローチだけじゃなくて結構あると思うんです。

 一生懸命やりすぎると、バランスが悪くなるんでしょうかね。

 ネジは、思いっきり締めればいいってもんでもないし、車のアクセルだってとにかく踏めばいいってもんじゃないのは当たり前ですよね。

 力を抜くべきところはきっちり抜くのが、やはりプロの仕事というものなんでしょう。

 


●○一瞬のコントラスト in渋谷●○

2006-08-22 20:09:03 | ちょっとした話題&日々の出来事

 昨日は、ある方(Aさん)と渋谷で会いました。 そして、あるものを買いにLOFTに行きました。 そこでAさん、ぜんぜん、どう見ても店員には見えない(LOFTは店員はみんな黄色い服です)、アメリカのブラック系の人が着るようなスポーツウェアを着ている20代後半くらいの男性に「お店の方ですか?」といきなり聞きました。 

 そしたら、その男性、「お店の人に見えますか?」と即座にけんか腰の怖い顔で言い、Aさんを睨み付けました。

 私は、「どう見ても違うじゃないですか。」と言ってAさんをその場から離れさせました。

  「渋谷は怖いなあ。いきなりあの反応か。」と思っていたのもつかのま、少し離れたところでまたAさんが、今度は明らかに店員の人に、  「○○ないですか?」と質問。

 すると、その店員さんは、「それは手芸用品ですね。お取り扱いしてないんですよ。東急ハンズか、ビックカメラの隣のマルナンにあります。」  と、よその店についての情報なのに、すごくチャーミングな笑顔で丁寧に教えてくれました。

 「へぇー、えらい親切な店員さんですね。すばらしい!」

 さきほどの乱暴な男性とはあまりに違う反応に、

 「渋谷にも、すごく怖い人もいれば、すごくやさしいいい人もいる。」

 という、すごく当たり前だけど、普段は感覚的にはなかなか納得できないような真理を体得することができました。 せいぜい1分くらいの間に起きた出来事だったので、コントラストがものすごかったのです。●○

 そう。  渋谷だけではありません。私たちが訪れる、ありとあらゆるフィールドがきっと同じなのです。

 だから、一人や二人いやな人に出会ったからといって、決してそのフィールドが、いやな人で溢れ返ってるなんて思ってはいけないんですね。

 何でもかんでも十把ひとからげに判断してしまうのは楽だけど、これは怠慢以外の何物でもなくて、この怠慢は、人生から感動興奮を奪い、退屈を与えるのではないでしょうか。

 昨日の渋谷でのコントラストは、こんなメッセージを私にもたらしたのでした。


人から言われたことを何でも真に受けないように

2006-08-21 23:15:06 | 気づき

 成長を続けるためには、もちろん、人の意見をきちんと聞くことが大切だと思います。

 しかし、人の言うことが全て意味があり、参考になると考えるのは危険です。

 いろいろと意見を言う人の中には、自分の方に関心を向けたいとか、足を引っ張りたいとか、相手を支配したいとかの、自分の勝手な都合で意見を言う人もたくさんいるからです。

 で、そういう勝手な自己都合の意見をきちんとより分けて除去しなければならないわけですが、生真面目な人はこういう自己都合の勝手な意見について真面目に考えすぎて、相手の思惑にはめられてしまう傾向があります。

 意見を聞いて、元気ややる気がなくなったり精神的に不安定になったりするような場合は、とりあえず、その意見の当否は別にして、ウイルスと推定してしまい無視するほうが、自分というシステムの安定性が保たれていいのではないでしょうか。仮に正しい意見だとしても、それで生きる気力がなくなってしまうようであれば、今それを受け入れて変化するのにふさわしい時期でない可能性がかなり高いです。

 自分に都合が悪い意見を全て排斥しよう、というわけではありません。謙虚に人の意見には耳を傾ける必要はありますが、これも程度問題で、耳を傾けすぎて自分の精神安定が著しく害されたりしてマイナスが大きすぎるときはとりあえず聞かないでおこう、という話です。

 もちろん、すぐに聞かないと取り返しのつかなくなる意見については例外です。元気がなくなっても、それは聞かねばなりません。

 この例外についてはよくよく見ていれば区別はできると思います。


早口は損!?

2006-08-20 23:31:31 | 気づき

 4ヶ月くらい前にある女性から、「もう少しゆっくりしゃべった方がよいよ。」と言われました。

 でもそのときは、「その女性が外国の方だからそう言ってるのだ」と理由を付けて、早口を改めようとはしませんでした。

 さらには、「地が早口なのだから、無理に遅くして、最終的に自分と合わない人には最初から合わせなくてもいいだろう。」などの理屈まで用意して、自分を正当化していました。

 でも、ずっと気になってはいたのです。何か意味があるような気がして・・・

 で、今日になって結論が出ました。

 早口には以下の欠点があります。

 1.早口だと、情報の薄利多売になる。早口の人は、1時間しゃべると、普通の人の3倍くらいの情報量を相手に与えることになる。すると、同じ時間で情報の供給量が仮に3倍であるとすれば、時間当たりの情報の価値が3分の1になってしまう。別にタイムチャージでお金を取っている場合でなくても、安っぽくなるのは否めない。

 2.薄利多売をしているにもかかわらず、相手の人は、「何この人あせってしゃべってるのだろう?」と不審に思ったり、話を理解できない不快感を持つ可能性があり、良く思わない確率が結構高い。

 言い換えると、たくさん情報を与えようというサービス精神があるのに、皮肉なことに相手に与える印象は「独りよがり」となってしまうリスクがあるということ。

 3.ペラペラしゃべることによって頭の回転が速くなるメリットもないことはないが、早くしゃべると、じっくり丁寧に考えることができにくい。

 4.早口を続けることによって、人と仲良くなれる確率が間違いなく減る。なぜなら、親しくなれるのが、早口が好きな人に絞られてくるからである。これはかなり大きな機会損失である。

 以上の分析から、これからは、相手が私に早口が求めている場合のほかはできるかぎりゆっくりしゃべることにしました。

 そして過去を遡って考えると、私が早口になったのは私の父が早口で簡潔に物事を言わないと話を聞いてくれず、それに適応した結果らしいこともわかってきました。

 F1のように、早くて切れ味のある会話こそがベストなんだ、という価値観に染まりすぎていたかもしれません。

 そういえば、アメリカではインテリの間でゆっくりしゃべることが常識化してきていると聞いたことがあります。