この章も、テーマは面白いが、中身は単なる思い込みの羅列だと思う。
この中で、
「目標は達成されるべきもので、語られるものではない。達成のための努力を続けている人は、他人に自分の目標について語るような時間的余裕はない。いまだ達成されていない目標は、他人に語ることで意志が「拡散」する。目標は自らの中に封印されていなければならない。だから目標を持つのは基本的に憂うつなことである。」
と書いている。
まず、「他人に~時間的余裕はない」のところについて言えば、これは、個人で作業をしている村上氏のようなタイプの人にだけ当てはまる話だ。
みんなで共同作業をするような仕事をしている人間にとっては、この、「目標」について語り、共有するために多くの時間が割かれるべきことは常識である。自分のような人間にだけ当てはまることを、一般化してしまうのは、いかにも視野狭窄で、それこそ、いわゆる「おっさん的」ひとりよがりな世界だと思う。
また、「いまだ達成されていない目標は、他人に語ることで意志が「拡散」する。」というくだりも、単に村上氏がそういう性格というだけの話である。というのは、他人に目標を語ることによって意志が「増殖」する人はいくらでもいるからだ。 例えば、タイガー・ウッズなどは、試合会場に来るや否や、「ここには勝つためにやってきた。」と最初に宣言してしまうことがよくある。タイガー・ウッズはそういうことを言うことによって意志が「増殖」するからそういうことをするのだろう。村上氏は、ここでも、自分のような性格の人間にしかあてはまらないことを、いかにも全ての人間のあてはまるかのように表現するという愚を犯している。
「だから目標を持つのは基本的に憂うつなことである。」というところも、よく分からない。「だから」という理由を示す表現を使っているにもかかわらず、ここまでの文章を読んだだけではなぜ憂うつなのかさっぱり分からないのだ。むしろ、突然の「だから」にびっくりさせられた。
語られるものではなくて達成すべきもので、それについて語る時間的余裕がなくて、封印すべきものであるから、基本的に憂うつ、と言われても、言葉足らず過ぎて意味が分からない。
それに、達成すべき、つまり義務であるからこそそれが快感という人もいくらでもいるし、語れず、封印された秘密であるから楽しいというものもいくらでもある。
単に村上氏が、義務であり、語られるべきでないものが嫌いであるというだけの話ではないだろうか?またもや、特殊な事例を根拠なく一般化している。
どうしてこうした一連の視野狭窄的な思い込みを断言口調で書くのか、素朴な疑問を抱いてしまうのは私だけだろうか?
あるいは、ある意味法律家的論理で、作家の文章を分析してしまう私の姿勢がおかしいのだろうか?