ドナルド・トランプ米政権が6月19日にUNHRC(国連人権理事会)から脱退すると表明したと伝えられている。
イスラエルに対する批判的な姿勢が偏向だというころらしいが、UNHRCのイスラエルの軍事侵略やアパルトヘイト的な政策に対する姿勢は生ぬるく、人権擁護は見せかけで、偽善的だと言われても仕方がないようなものだった。
今回の脱退劇は単なるパフォーマンスだというべきだろう。
この理事会のシンクタンク的な存在だという諮問委員会の委員長にサウジアラビアの国連大使が選ばれているが、
現在、この国はイスラエルと同盟関係にあることを公然と認め、パレスチナ問題でもアメリカやイスラエルと同じ姿勢を示している。
1970年代終盤、ジミー・カーター政権の国家安全保障補佐官だったズビグネフ・ブレジンスキーはソ連を疲弊させるためにアフガニスタンで秘密工作を開始、
サラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)やムスリム同胞団が主力とする戦闘集団を編成した。
その戦闘員と工作資金を提供したのがサウジアラビア。
アメリカは戦闘員を訓練、携帯防空システムのスティンガーや対戦車ミサイルのTOWを含む武器/兵器を供給、パキスタン、王政時代のイラン、イスラエルなどが協力している。
アフガニスタンへ戦闘員を送り込む仕事をしていたひとりがオサマ・ビン・ラディン。
この人物をジハード(聖戦)の世界へ引き込んだのはムスリム同胞団のアブドゥラ・アッザムだと言われている。
ビン・ラディンは1984年にアッザムとMAK(マクタブ・アル・ヒダマト/礼拝事務局)のオフィスをパキスタンのペシャワルで開設、このMAKがアル・カイダの源流だと言われている。
アフガニスタンでの戦争はアメリカ政府のジハード傭兵を使った侵略から始まっている。
ソ連軍は1989年2月にアフガニスタンから撤退、91年にはオサマ・ビン・ラディンもアフガニスタンを離れたが、
その際、彼をエスコートしたのはアメリカの特殊部隊と関係の深いアリ・アブドゥル・サウド・モハメド。
ふたりはサウジアラビアからパキスタンを経由してスーダンへ入っている。(Peter Dale Scott, “The American Deep State,” Rowman & Littlefield, 2015)
その後、オサマ・ビン・ラディンはユーゴスラビアへ移動したようだ。
サラエボで1993年から94年にかけてオサマ・ビン・ラディンを何度か見かけたという証言がある。
当時、アメリカを含むNATO加盟国の情報機関はジハード傭兵をボスニア・ヘルツェゴビナへ送り込んでいた。
そして1999年のNATO軍によるユーゴスラビアへの空爆につながる。
1991年12月にソ連が消滅して以降、ユーゴスラビアへの侵略と同国の解体を目論む勢力は「人権」を口実に使っていた。
人権を守るための戦争を始めるというわけだが、この主張が嘘だったことは本ブログでも繰り返し書いてきた。
ユーゴスラビアでの仕事が一段落した後、オサマ・ビン・ラディンの名前は2001年9月に浮上する。
2011年春からアメリカはイスラエル、サウジアラビア、イギリス、フランスをはじめとする国々と手を組んで北アフリカから中東にかけての地域でジハード傭兵を使った侵略戦争を始めたが、
その際に「人権」という呪文が唱えられていた。
「人権を守るため」に侵略、破壊、殺戮、略奪を行ったのだ。
真に人権のために戦っている人や団体なら、こうしたアメリカのやり方は許せないはずだ。
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