4.16 チャーリー・チャップリン 「道化師であることはどの政治家よりも私を高く飛ぶ飛行機に乗せてくれる」
130年前、ロンドンのミュージックホールの俳優一家に男の子が誕生した。
今や「喜劇王」と呼ばれるチャールズ・スペンサー・チャップリン、その人だ。
観客たちは、チャップリンが創作した「小さな放浪者=The Little Tramp」の姿を笑ったが、
名優が演じるのがほぼ等身大の彼自身なのではないかと疑う人は少なかった。
チャールズ・チャップリンの幼少期は幸せだった。だがそれは長く は続かなかった。
父親の早すぎる死の後、母親が稼ぎ手となり、 ミュージックホールで歌を歌い始めた。
ところがある公演の最中に 母親が突然声を失う。
母親が片時も離さなかった当時5歳のチャー リー少年が舞台に上がり、母親に代って歌を披露した。
観客たちは 少年に小額のコインや紙幣を投げ与えた。
チャーリー少年は観客たちの笑い声の中、投げ銭を拾い集めるとま た歌を歌いだし、ホールを感動で満たした。
チャーリー・チャップリンの創造に満ちた伝記はこうして始まった。
チャーリー少年が7歳になったとき、母親は精神病院に入れられ、 チャーリー少年は孤児院に預けられることになった。
たえず腹を空かせた宿無しのチャーリー少年は、 新聞の売り子や病院での看護師の手伝い、印刷工場など、自分をを 雇ってくれるところであれば生きるためにどこでも働いた。
1908年、19歳のチャーリー・ チャップリンは英国のパントマイム劇場に雇われ、 その劇団と共に米国へ公演旅行に出かける。
ここで青年の夢が実現することになった。
チャーリーは俳優としてだけでなく、無声映画でも名声を勝ち取り、有名な監督となって映画スタジオを所有するまでになった。
「小さな放浪者」の舞台イメージを考案したのはチャーリー青年本 人だった。
幅広の裾のズボンと窮屈な上着、山高帽にぶかぶかのブ ーツ、ちょび髭、ステッキ。
少年期の虐げられた経験を忘れていな かったチャーリー青年は、自身の経験に基づいて映画を製作した。
チャップリンの作品は、時に笑い、時に涙を誘うが、 決して変わらないのは人間の尊厳を守るということ。
そしてこれが 永遠のテーマだった。
だからこそ彼の映画は永遠不滅のものとなっ たのだ。
チャップリンは語る。
「人生は、近くで見れば悲劇であるが、遠めで見れば喜劇である。」そしてこうも言った。
「私の苦痛が、誰かが笑うきっかけになるかもしれない。しかし、私の笑いが、 誰かの苦痛のきっかけになることだけは絶対にあってはならない。 」
1950年代のはじめ、チャップリンは自身が40年以上を暮らし 、そして働いてきた米国から事実上の追放を受ける。
米国内で正真 正銘の「魔女狩り」を実施した米連邦捜査局(FBI)の初代長官 、エドガー・フーヴァーは、
チャップリンに共産主義への賛同者という嫌疑をかけ、米国への入国を禁止した。
このように権力は、米国映画の名声を高めたチャーリー・チャップリンに、こんなとんでもない形で「感謝の意」を表した。
チャップリンはこの仕打ちれに対し、
「私は道化師であり続ける。 そして道化師であることはどの政治家よりも私を高く飛ぶ飛行機に乗せてくれる」と返した。
チャップリンはスイスに移住し、人生の最後の時期を家族とともに幸せに暮らした。
チャーリー・ チャップリンは、どんなに困難な目にあっても、決して絶望などせず、
「このよこしま(邪悪)な世界に永久なものなんてない。苦しみでさえ永久ではないんだ」という強い信念を持ち続けた。