タカちゃんの絵日記

何気ない日々の感動を、スケッチと好きな音楽と、そして野鳥写真を。。。

   ~魂にふれる~

2016-04-11 | その他

   ~少 女~(モデルがいないから、知人のお嬢さんをモデルに描いて見た。)

この絵とは何の関わりもないのだが、今日は今読んでいる本の事などを・・・先日図書館で借りる本を捜したい

たところ、タイトル「魂に触れる・大震災と、生きている死者」:若松英輔著が目を引いたので、借りて来て一気読み 

うぃし終えたところである。

肉体がこの世から消え去った後も、魂は存在するのか、それともしないのか。

この問題には賛否両論あるが、本書は「魂は、死後も確かに存在する。」と言っている。

本書の中に「魂に触れる」という項が、最後の部分に置かれていて、

著者の妻が、いまわの際の病床にあって、背中を撫でてやりながら、胸の辺りで丸い何かに触れた。

それは丸い何かである様に感じられた。 

丸い柔らかな、しかし限りなく繊細な、肉体を包む何ものかである。

魂とでもいうものだろうか・・・・妻と見詰め合いながら、しばし深い沈黙が続いて、「こういうこともあるんだ

ね。」と言葉を交わすと、妻は少しおびえた様だったが、起こったことの真実を、いっそう深く了解していた

・・・・・・・抱きしめる。

その時何かを感じるのは抱きしめられた方ではないか。・・・魂にふれるときも、同じ現象が起こる。・・・と記し

ている。

私も例えは違うが、絶体絶命の艱難に見舞われ、薄れゆく意識の中で、たしかに、先年逝った母の手の温もり

を感じた事がある。

その後、著者の妻が手の届かないところに逝って後、耐え難い静寂と寂しさの中で、「私はここにいる」と抱き

しめてくれたのは彼女()であった。

そんな辛い日々の中で、著者の領域ではないのだが、詩によって死者の臨在を説いている。

コトバ、それは、、

何かを呼ぶ道具ではなく、

混沌から、意味を伴い、物事を、想念すらも、

コトバが産むと、

哲学者は言った。

存在者を認識するのは、ココロ。

哲学者はココロの深まりとともに、

世界は、姿を変じるという。

君は病が与えた痛みと苦難を、

精いっぱい、引き受けて、

ある日、

笑みのかわりに、

みんなに希望を振りまいて、

逝った。

哲学者が正しいなら、

コトバは、冥界から、

君を呼び出し、

ココロは、君がいる世界を、

つかみとるだろう。

最大の艱難である、そのときに、

そばにいてほしいと願うひとは、

いない。

その人を喪うことが、

一番つらい出来事だから、

そう思っていた。

しかし君がぼくを、独りにしたと思ったあのときも、

震えるぼくの傍らに、いてくれたのは、君だった。

ありがとう。

今は、それがはっきりとわかる。

・・・・妻を喪い、悲しみは今も癒えない。

しかし、悲しいのは逝った方ではないだろうか。 死者はいつも生者の傍らにあって、自分のことで涙する姿を見なくてはならない。

悲しみのうちに生者を感じている。

悲愛とは、こうした二者の間に生まれる協同の営みである。<「魂に触れる・大震災と、生きている死者」:若松英

輔著>より抜粋

私も、肉体はこの世から消え去ったとしても、「魂」は常に生者達を見守っていてくれていると思うのである。

 

 

 

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