原発事故のあった、三月十三日に、原発から、30キロ圏内の、久ノ浜と大久地区の避難のお知らせ。小生の所は、50キロ離れているので、「対岸の火事」だっぺぇくらいしか、考えていなかった。テレビの報道で徐々に、不安が増していた。大分後になって、いわき市の山間部の一部も、30キロ圏内になっていた。この山間部の知り合いは、「原発の事故で、避難するように」と、知らせがあったが、どうすることもできなかったと、聞いた。混乱は仕方のないことで、まずは、わが身の安全を、自分で確保するしかない。事故の教訓として、記憶しておく。画像は以前にも、載せている。
画像の左側は、震災の翌日に、隣組の各家庭に配布をしたもの。震災当日の夕方は、隣組の各家庭に、「どうでした」、「水はありますか」と、声をかけて回った。拙宅では、湯船が大きいので、断水前に、満杯にしておいた。飲み水が無いという、ひとり暮らしの人のは、汲み置いたみずを、やかんに一つを届けた。トイレの水というところもあって、風呂おけの水を、ばけつに、二杯届けた。近所に、ブロック塀が、倒れそうな所には、車に積んであった、黄黒のロープを張り、危険の張り紙をした。余震のたびに、見回りにいった。自分の所は、店先のガラスが割れた。ありあわせのベニヤ板を、三枚張り付けた。余震の恐怖と、震災のテレビ報道に、見入りして、布団にもぐり込んだのは、午前三時だった。
ひな壇の周りに、つるしてあった。せいぜい、5センチくらいの大きさだったかなあ。小さいのは、2センチくらいのものが、連なって下がっていた。
これも、飾ってあった。ひな壇飾りの周りには、吊るし雛も、手造りして、飾ってあった。吊るし雛をよく見ると、昔の着物地が、使われている。呉服を扱っているので、たやすく手にいれられるのかと、聞いたが、容易くはないとのこと。フリーマーケットが催すと聞けば、遠方まで、早朝でかけて行くとか。それでも、無駄足になると言っていた。最近は、このひな壇飾りを見せてくださいと、訪ねてくる人も多いそうだ。
十二ひとえを、装束している。「着物着かえて 帯しめて 今日はわたしの 晴れ姿 春のやよいの このよき日 なによりうれしい ひなまつり」と、歌われている。テレビでは、悲惨な報道が、多いように、感じる。平穏無事の日常であってほしい。
仕事で行った呉服店に、飾ってあった。三月三日、女の子の節供。七段飾りが、二つ飾ってあった。最上段に、おだいりさまと、おひなさまと、二段目には、三人官女と、三段目は、五人ばやし、四段目は随身、五段目は、三仕丁、六段目は、嫁入り道具がならび、七段目は、御所車や籠が、飾ってある。物の本には、「宮中の優雅な宴をもとに、できあがった」とある。宮中の結婚披露の宴を、模しているようだ。