八十路徒然なるままに

かげろうの夕べを待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年を暮すほどだにもーーー。徒然草より

いわきの伝説、丹後沢の人柱

2019年12月02日 19時37分46秒 | Weblog

画像は、平城の地図。元和八年[1622年]とある。お城のことではなく、お城を守るのに、堀の堤防を作るのに、人柱をたてたという、昔はなし。鴨志田義康著のいわきの伝説より、「丹後沢の人柱」です。お城の北西にある、深くて長い沢があった。沢の水は、四軒町に流れ落ちていた。ここをせき止めれば、お城を守ることができると、土手の工事を始めた。大雨が降ると、そのたびに、土手が崩れてしまったとか。占いをしてみると、「沢の底に、大亀が住んでいて、雨が降ると、鎌田川[今の夏井川]に、通っている」と、いうので、崩れなくするには、人柱をたてて、工事をするしかないとなったとか。殿さまが、「人柱になる老人はおらぬか」と、おふれを出したとか。ひとりの老人が申し出た。殿さまが、「望みのことは」と、問うと、「丹後沢と名を付けてください」と。「沢の名のほかに、なんの望みもございません」と、答えた。殿さまが、「それでは、お前の子や孫を、取り立ててやることにしょう」と。老人の孫の弥蔵を士分[武士の身分]iに、取り立てる約束をした。そして、酒を出させ、老人の丹後にさかずきを持たせると、「埋もれ木の 花はさくことは あらねども 苔の下には さぞやかなしむ」と、歌をよんだ。丹後は、「惜しむとも 千とせながろう身を捨てて その名を残す 丹後沢かな」と、返し歌を詠んだという。丹後は、別れのあいさつをして、沢を下り、扇を開いても千秋楽の舞をまいながら、沢の底に行き、その時、人夫たちが、いっせいに、土を落として埋めたという。平城は、外堀が竜の形をしていたとか。白蛇堀があり、桜堀[磐城桜が丘高校の南]があり、桜は、すぐ近くの長源寺にある、墨染め桜の由来という。磐城中学校の初代校長先生作歌の一節に、「城の名ごりは丹後沢、青き淵にはその昔、あやしき亀や棲みつらむ、昔ながらの面影を、底にやどして月ぞすむ」。いわきの伝説よりてした。

 

 

 

 


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