日蓮聖人像
池上本門寺は、日蓮聖人が今から約七百三十数年前の弘安5年(1282)10月13日、61歳で入滅(臨終)された霊跡です。
日蓮聖人は、弘安5年9月8日9年間棲みなれた身延山に別れを告げ、病気療養のため常陸の湯に向かわれ、その途中、武蔵国池上(現在の東京都大田区池上)の郷主・池上宗仲公の館で亡くなられました。
長栄山本門寺という名前の由来は、「法華経の道場として長く栄えるように」という祈りを込めて日蓮聖人が名付けられたものです。そして大檀越の池上宗仲公が、日蓮聖人御入滅の後、法華経の字数(69,384)に合わせて約7万坪の寺域を寄進され、お寺の礎が築かれましたので、以来「池上本門寺」と呼びならわされています。
毎年10月11日・12日・13日の三日間に亘って、日蓮聖人の遺徳を偲ぶ「お会式法要」が行われ、殊にお逮夜に当たる12日の夜は、30万人に及ぶ参詣者で賑わいます。
国際平和都市宣言の祈念モニュメントと清水門
千代田区は、国際平和都市宣言を提唱して、平和祈念のモニュメントを建立している。モニュメントの台座の中にはタイムカプセルが納めてあります。
このタイムカプセルは千代田区制100周年(2047年)に開かれる。
千代田区役所の前方に清水門が見えます。江戸城の中でも城門として形を整えている風格のある清水門であります。牛ヶ淵と清水濠の間を通って城門を入っていくと北の丸公園に行きつきます。
清水門は、寛永元年(1624)助役大名浅野長晟建立の典型的な枡形門。破風の中は銅板が張られ、青海波(せいかいは)が刻まれている。これは、かつての江戸城天守と同じ作りです。
鯱には葵の門がある。雁木坂(石の階段)は他の門には無く江戸時代の形を残しています。昭和36年重要文化財に指定、解体修理と渡櫓の復元を行う。
清水門の第一の門(高麗門)、第ニの門(渡櫓門)。
都心の中にこんなに時代を感じさせるところがあるのかと感慨深くなります。清水門は東京でも江戸時代を思い出させてくれる好きな場所です。
北区西ヶ原に「七社(ななしゃ)神社」があります。
隣接地の飛鳥山に邸宅を建てていた渋沢栄一翁との関わりもあるようで、境内には、「枯松を祭る文の碑」があります。渋沢栄一翁の邸宅の松の木が枯れたことを深く悲しみ、漢学者・三島中洲に文章の作成を依頼、自ら揮毫して明治44年に建立した碑です。
渋沢栄一翁は、飛鳥山邸を本邸としたときに七社神社の氏子となり、寄付により社務所を建築させました。七社神社の社額は渋沢栄一翁の揮毫によるもの。
境内には大きなイチョウの大木があります。神木として「願掛 公孫樹」として絵札が周りに掛けられてあります。
この度、新一万円札の肖像となる渋沢栄一翁の史料館も飛鳥山にあります。
青淵文庫、晩香盧など歴史的な建造物も残っております。渋沢栄一翁の銅像も建てられております。
七社神社と飛鳥山渋沢史料館と散策をしてみるのも良いでしょう。
枯松を祭る文の碑 渋沢栄一翁の銅像
隣接地の飛鳥山に邸宅を建てていた渋沢栄一翁との関わりもあるようで、境内には、「枯松を祭る文の碑」があります。渋沢栄一翁の邸宅の松の木が枯れたことを深く悲しみ、漢学者・三島中洲に文章の作成を依頼、自ら揮毫して明治44年に建立した碑です。
渋沢栄一翁は、飛鳥山邸を本邸としたときに七社神社の氏子となり、寄付により社務所を建築させました。七社神社の社額は渋沢栄一翁の揮毫によるもの。
境内には大きなイチョウの大木があります。神木として「願掛 公孫樹」として絵札が周りに掛けられてあります。
この度、新一万円札の肖像となる渋沢栄一翁の史料館も飛鳥山にあります。
青淵文庫、晩香盧など歴史的な建造物も残っております。渋沢栄一翁の銅像も建てられております。
七社神社と飛鳥山渋沢史料館と散策をしてみるのも良いでしょう。
枯松を祭る文の碑 渋沢栄一翁の銅像
田町駅近くの第一京浜国道と日比谷通りの交わった交差点のところに「江戸開城 西郷南洲・勝海舟会見之地」の碑が建立されています。
徳川幕府の討幕活動をしていた西郷南洲は江戸城を襲撃する行動を起こすところでした。
勝海舟は芝の薩摩藩邸に赴き、西郷と話し合いをして、江戸城の襲撃を思い留めさせた。また、愛宕山に西郷を案内して江戸城を見させてここが火の海となったら後々後悔をすると説得しました。
現在、皇居があるのは、この二人の会見のお陰であります。
この碑のところには、当時の絵地図と説明文が付設されています。
当時は、薩摩藩邸のそばは海であり、落語の人情噺で有名な「芝浜」の場所でもあります。
勝海舟と西郷南洲の真剣な話し合いで、江戸城は開城して明治天皇が住む皇居となりました。
徳川幕府の討幕活動をしていた西郷南洲は江戸城を襲撃する行動を起こすところでした。
勝海舟は芝の薩摩藩邸に赴き、西郷と話し合いをして、江戸城の襲撃を思い留めさせた。また、愛宕山に西郷を案内して江戸城を見させてここが火の海となったら後々後悔をすると説得しました。
現在、皇居があるのは、この二人の会見のお陰であります。
この碑のところには、当時の絵地図と説明文が付設されています。
当時は、薩摩藩邸のそばは海であり、落語の人情噺で有名な「芝浜」の場所でもあります。
勝海舟と西郷南洲の真剣な話し合いで、江戸城は開城して明治天皇が住む皇居となりました。
将棋の神様・升田幸三名人
令和の将棋界では、藤井聡太氏が全タイトルを独占する八冠王となって話題になっています。
令和の将棋界では、藤井聡太氏が全タイトルを独占する八冠王となって話題になっています。
昭和には三冠の時代がありました。
テレビBS朝日で「ザ・ドキュメンタリー あの日ニッポンが変わった 将棋の神様・升田幸三」を放映しておりましたので観ました。
将棋界の著名人が次々出てきました。村田英雄の「王将」で有名な阪田三吉、木村義雄初代名人、大山康晴名人等々。そして中原誠氏などが解説をしていた。
升田幸三氏が故郷の広島から大阪で将棋の修行をするところから、木村義雄名人に挑戦し勝利。その後昭和32年7月11日に大山康晴名人に勝利し、名人、王将、九段の初の将棋三冠を達成した日までのドキュメンタリーです。
その中で、升田幸三氏の長男である升田晋造さんが「父親の思い出」を語っておりました。
父親が死の直前に、母親に対する感謝と信頼愛について、直接息子の晋造氏へ語っていたエピソードが印象に残りました。
升田晋造氏は現在TAMC(東京アマチュアマジシャンズクラブ)のメンバーであり、研修の指導的立場にある方です。ステージマジック大会では「中国の変面の演技」を披露してくれました。
升田晋造さんから「トランプツリー」や「空袋から3つの花籠が出現する作品」を譲渡されて、今ではよくマジック出演の時に披露しております。
昭和時代には素晴らしい将棋の神様・升田幸三名人がいたことを記憶させる番組でした。
大学時代に東海道新幹線の中で升田幸三名人と遭遇したことを思い出しました。
井の頭公園の御殿山の近くに流れる玉川上水があります。
玉川上水にまつわる二つの話
①「太宰治の入水自殺」
太宰治は、明治42年(1909)青森県北津軽郡金木村(現金木町)に、県内屈指の大地主の子として生まれた。
東京帝国大学仏文科在学中に井伏鱒ニに出会い、師事する。昭和14年(1939)1月、井伏夫妻の媒酌で結婚。同年9月に甲府から三鷹の下蓮雀に転居しました。
以降、終戦前後の疎開を除き、昭和23年6月玉川上水に入水するまでを三鷹で過ごしました。
太宰治の墓は三鷹市の禅林寺にあり「桜桃忌」には多くの人が集まります。
②「松本訓導殉職の碑文」
太宰治は、明治42年(1909)青森県北津軽郡金木村(現金木町)に、県内屈指の大地主の子として生まれた。
東京帝国大学仏文科在学中に井伏鱒ニに出会い、師事する。昭和14年(1939)1月、井伏夫妻の媒酌で結婚。同年9月に甲府から三鷹の下蓮雀に転居しました。
以降、終戦前後の疎開を除き、昭和23年6月玉川上水に入水するまでを三鷹で過ごしました。
太宰治の墓は三鷹市の禅林寺にあり「桜桃忌」には多くの人が集まります。
②「松本訓導殉職の碑文」
大正8年(1919)11月20日東京府麹町区(現在千代田区)永田町小学校全校児童は、井の頭公園に秋の遠足を行った。
当時の井の頭公園は都心から離れた郊外で来園する人も少なかった。
従ってこの遠足は文字通りの遠出で、児童達は大変期待していたものである。到着後、喜びのあまり遊びに夢中になっていた一児童が足をすべらせて玉川上水の急流に落ちてしまいました。
急を聞いた松本虎雄訓導は、わが身の危険もかえりみず玉川上水に飛び込み児童を救おうとしたが、急流にのまれて殉職しました。
時に三十三才であった。命を捧げて児童を救おうとした尊い行為は、人々に深い感銘を与えました。松本訓導の児童愛に燃えるこの勇敢な行為は、教師のかがみといえるものであります。
これを後世に顕彰するために、殉難のあったこの地に記念碑「松本訓導」が建てられたのであります。
当時の井の頭公園は都心から離れた郊外で来園する人も少なかった。
従ってこの遠足は文字通りの遠出で、児童達は大変期待していたものである。到着後、喜びのあまり遊びに夢中になっていた一児童が足をすべらせて玉川上水の急流に落ちてしまいました。
急を聞いた松本虎雄訓導は、わが身の危険もかえりみず玉川上水に飛び込み児童を救おうとしたが、急流にのまれて殉職しました。
時に三十三才であった。命を捧げて児童を救おうとした尊い行為は、人々に深い感銘を与えました。松本訓導の児童愛に燃えるこの勇敢な行為は、教師のかがみといえるものであります。
これを後世に顕彰するために、殉難のあったこの地に記念碑「松本訓導」が建てられたのであります。
原敬首相の襲撃現場
東京駅の丸の内南改札ホールに原敬首相の襲撃現場が記録されています。 床にポイントで示されており、すぐそばの壁には襲撃の模様が掲示されています。
1921年11月4日。原敬首相は、立憲政友会の大会に向かうため、東京駅の改札口へと向かう途中、右翼の青年に暗殺される。
原敬が首相になってから行った財閥などに利益を誘導するような政策、普通選挙法への反対、ロシアによる日本人約700人を含む住民虐殺事件「尼港(にこう)事件」への対応などに不満があったと伝えられる。
原敬は1856年盛岡藩で生まれた。首相になった際には「平民宰相」と呼ばれるが両親は武士の家柄。成人後に分家して平民籍になっている。
新聞社や外務省への勤務を経て、1900年に立憲政友会に入党。1918年には、米騒動で辞任に追い込まれた寺内内閣が総辞職。
立憲政友会の党首として首相に任命されるという、日本で初の本格的な政党内閣を組閣する。
明治8年開局の「日高郵便局」
武蔵高萩の犬竹一浩さん(TAMCのメンバー)の家を訪問しました。
広大な土地に蔵造りの土蔵もあり、樹齢400年の欅の大木もある由緒ある犬竹家であります。
通りに面したところに「日高郵便局」があったとのこと。今は営業をしていないが、明治8年建設されたものであるという。郵便制度がスタートしたのが明治5年であるので、かなり早い時期に開局した郵便局であります。当時は高萩村であったため、「高萩郵便局」として営業しており、昭和30年代まで開局していたという。
高萩村が日高市と合併してからは、名称を「日高郵便局」として現在まで残してあります。このことは最近埼玉新聞でも紹介されていました。
広大な土地に蔵造りの土蔵もあり、樹齢400年の欅の大木もある由緒ある犬竹家であります。
通りに面したところに「日高郵便局」があったとのこと。今は営業をしていないが、明治8年建設されたものであるという。郵便制度がスタートしたのが明治5年であるので、かなり早い時期に開局した郵便局であります。当時は高萩村であったため、「高萩郵便局」として営業しており、昭和30年代まで開局していたという。
高萩村が日高市と合併してからは、名称を「日高郵便局」として現在まで残してあります。このことは最近埼玉新聞でも紹介されていました。
武蔵高萩には、清水の次郎長、山県有朋、山岡鉄舟も滞在したようである。犬竹家にも滞在したというから歴史のある家柄であります。
武蔵高萩駅は天皇陛下が利用したということで東京駅と同格にあるという。当時の写真と満開の桜に囲まれた駅舎の絵が構内に飾ってありました。とても品格のある駅に見えてきました。
犬竹一浩さんのお陰で、新たな土地と歴史を垣間見ることが出来ました。
犬竹一浩さんのお陰で、新たな土地と歴史を垣間見ることが出来ました。
西郷・勝会見の碑(池上本門寺松濤園)
池上本門寺には新政府軍(西郷隆盛)の本陣が置かれていたところです。
西郷隆盛と山岡鉄舟が駿府での交渉がまとまらなかった後、慶応4年(1868年)3月12日、勝海舟が西郷隆盛を訪れ直接交渉へやってきて、本門寺の奥庭の「松濤園」の四阿(あずまや)で会見をしました。その記録を残す会見碑があります。
その翌日の3月13日には薩摩藩下屋敷、14日には薩摩藩蔵屋敷(田町駅前)で二人は会見をして、最終的に江戸城無血開城となった経緯があります。
歴史的に貴重な場所を拝見することが出来ました。
田町薩摩邸(勝・西郷の会見地)跡地
田町駅のそばの第一京浜道に、薩摩邸跡地の記念碑がある。この敷地は、明治維新前夜、慶応4年3月14日、幕府の陸軍総裁である勝海舟が、江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し、江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所です。
この蔵屋敷の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られてくる米などは、ここで陸揚げされた。
現在は、鉄道も敷かれ(明治5年)更に埋め立てられて、海まで遠くなりました。この付近は最後まで残った江戸の海岸線です。
また人情噺で有名な「芝浜の革財布」は、この地が舞台となっています。
「永久平和を願って」記念碑
池袋にサンシャインシティがあります。多くの人たちが来場して楽しんでおります。ここは以前東京拘置所(巣鴨プリズン)があった場所です。その一角に東池袋中央公園があります。植木に囲まれた場所に「永久平和を願って」と明記された記念碑があります。
ここは終戦後、東京裁判で死刑宣告されたA級戦犯たちが絞首刑を執行された場所。石碑の裏には東京裁判のことが記してあります。サンシャインシティの建設でも一番最後に造営されたところです。建設中の事故など起こさないような配慮であったようです。
祝嶺和子さんについて、沖縄タイムスの2005年3月5日付朝刊に掲載されていたものです。
その当時東京側の厚生省担当に配属された沖縄出身者の証言が<沖縄戦の住民犠牲者が、援護法の対象となる「戦闘参加者」として、「該当」するか否か>。最終的に決定したのは厚生省だ。その決定に携わっていたのが、沖縄県出身の祝嶺和子さんだ。
1989年に厚生省を退職するまで、中国残留孤児問題を含めて、援護畑一筋に働いた。沖縄戦当時、女子師範本科に在学していた。1945年3月、女師、一高女の学生が、看護隊として出陣するための集合時間に、空襲に遭い、祝嶺さんは間に合わなかった。大勢の同級生や後輩が「ひめゆり学徒」として亡くなった。戦後そのことは「ずっと、頭を離れることはなかった」という。
多くの友人を亡くし、生き残った元特攻隊員の祝嶺正献さんと結婚。沖縄から日本本土へ渡った後、1954年、厚生省に入省した。沖縄出身ということで「『沖縄のことをこれからやるからね、援護局につくられた沖縄班に来なさい』と上司に言われ、決まっていた配属先から異動させられた」。前年から、米軍統治下の沖縄でも、軍人軍属に対して、日本の援護法適用が始まっていた。祝嶺和子さんの異動は、援護法の適用拡大に向けた動きだったようだ。
「援護では最初に、軍人軍属の、その次に沖縄では学徒たちも戦ったらしいな、ということで、私が引っ張られたのだと思う」。当時、沖縄班の人員は7、8人。祝嶺さん以外に、もう一人県出身で、後に国民年金課長を務めた比嘉新英さん(故人)がいた。沖縄の市町村が受付け、琉球政府を経由して、厚生省に送られる援護の申請資料。
防衛隊など軍人軍属への申請書類に目を通していた同僚が、祝嶺さんに尋ねた。「普通のおじさんやおばさんも、軍のために働いたのか?」。沖縄戦では、一般住民が、武器らしい武器もなく、米軍への切り込みを命じられ、日本軍のために弾薬を運び、「集団自決」を強いられていた。
国際商科大学完成予定図
家の中を整理していたら大学の入学の時の資料が出てきました。1965(昭和40年)年4月、埼玉県川越市に新設された国際商科大学(現東京国際大学)の第1期生として入学した。入学案内には、国際商科大学完成予定図が掲載されていた。
新設校であり大学案内を準備している頃は校舎が建設中であった。だから、完成予定図しか載っていなかった。
国際商科大学新設のお知らせ
◆目的 経済界に雄飛する国際経済人の養成を目的とする。
◆教育方針 アカデミックな雰囲気の中に理論に偏せず、実務に堕さず、高度の教養と学識を具え、しかも国際的分野に活動の出来るよう配慮する。具体的には、内外貿易商社の第一線、大メーカーの国際部門に活躍する人材、官公私各機関及び会社の海外駐在員、独立企業の経営マンを養成する。従って語学に重点をおき専門科目の学習には、原書を教科書として使用するすることを強く推進する。斯くて、会話は勿論、スピーチ等語学に絶対の自信を与える。
◆特色
①姉妹校たる欧米諸大学との交流を強化し、海外に留学し、国際的見識を深めることを目標とする。
②英国オックスフォード大学に見る如きチュートーリアル・システム(個人指導中心演習重点主義)を導入し、社会人、国際人、教養人としての実力を養成し、経済問題は勿論日常の実務にも自己の独自の見識を発表しうる人物の輩出を期する。
③就職斡旋制度の確立に重点をおき、一橋大学をはじめ各大学の就職担当経験者を顧問、参与として招聘し、各大学出身者の実業人より成る理事、評議員、維持員関係の各一流会社の協力を得て、就職に万全を期している。
◆学部・称号 商学部 商学科(4年制)学士号 商学士
◆入学定員 100名
◆校地 33,000平方米
◆校舎 3,300平方米
◆図書 25,000冊
今の東京国際大学と比較すると隔世の感がある。しかし、スタート時のことも知っておくことは現在担当している人達にも必須であると考えて表示しました。参考になれば幸甚です。
TAMCのメンバーであります梶田明宏さんは昭和天皇記念館の副館長として就任しております。梶田明宏さんが企画している「絵葉書・ポスターに見る昭和天皇・香淳皇后」特別展に、TAMCの濱谷堅蔵さんご夫妻、守岡喜一さんと一緒に観覧に行きました。
梶田明宏さんが最初に解説をしてくれたのは、昭和天皇87年の生涯です。
「誕生・幼少時」「皇太子・摂政時」「即位・激動の日々」「巡幸・復興の日々」「公務」「儀式・行事と行幸」「国際親善」「平穏の日々・崩御」の8コーナーを詳しく説明をしてくれました。鹵簿模型、ニッサンプリンスロイヤル、儀式用御椅子、生物学研究室、お召列車模型などは素晴らしいものです。
後半は、特別企画展です。展示してある昭和天皇に関するポスターや絵葉書の多くは梶田明宏さんが収集をしたもので貴重な資料の数々が並んでおります。流石、昭和天皇研究家と云われるだけのことはあります。
見学終了後は、記念館の前で梶田明宏さんを囲んで記念写真を撮りました。
その後、梶田明宏さんを囲む懇談会が中華料理店で開催されました。昭和天皇が欧州旅行をしたことのあるイギリスやベルギーに渡航して実際に調査した時の話はとても貴重な内容でした。渡航中のエピソードもたくさん聞くことが出来ました。またTAMCの活動内容についても意見交換ができた楽しい懇談会のひとときでありました。
梶田明宏さんが最初に解説をしてくれたのは、昭和天皇87年の生涯です。
「誕生・幼少時」「皇太子・摂政時」「即位・激動の日々」「巡幸・復興の日々」「公務」「儀式・行事と行幸」「国際親善」「平穏の日々・崩御」の8コーナーを詳しく説明をしてくれました。鹵簿模型、ニッサンプリンスロイヤル、儀式用御椅子、生物学研究室、お召列車模型などは素晴らしいものです。
後半は、特別企画展です。展示してある昭和天皇に関するポスターや絵葉書の多くは梶田明宏さんが収集をしたもので貴重な資料の数々が並んでおります。流石、昭和天皇研究家と云われるだけのことはあります。
見学終了後は、記念館の前で梶田明宏さんを囲んで記念写真を撮りました。
その後、梶田明宏さんを囲む懇談会が中華料理店で開催されました。昭和天皇が欧州旅行をしたことのあるイギリスやベルギーに渡航して実際に調査した時の話はとても貴重な内容でした。渡航中のエピソードもたくさん聞くことが出来ました。またTAMCの活動内容についても意見交換ができた楽しい懇談会のひとときでありました。
西郷隆盛と勝海舟会見の地(三田)
1868(明治1)年3月14日、旧政府を代表する勝海舟は江戸の薩摩藩邸に新政府を代表する西郷隆盛を訪れて、国内では一揆や打ちこわしが起こっており、戦争は国を混乱させ、内戦の拡大が国家の独立を危うくする事を説き、 無血で江戸城を明渡す事で両者の話し合は合意に達した。こうして新政府軍と旧幕府軍との全面的 な武力衝突は回避され江戸の町は戦火を 免れた。
勝海舟は、篤姫からの親書を携えて皇居から三田の西郷隆盛の在所である薩摩藩邸に出向いた。西郷は、3月15日を江戸城攻撃の日と定めて準備をしていた。勝が訪れたのは、前日の14日であった。この二人の会見がなければ、日本の歴史も大きく変わったものになっていた。
勝海舟が、江戸城を出発して三田の薩摩藩邸までどのくらいの時間がかかったのか、自分の足で確かめてみた。皇居から内堀通りを進む。皇居の周りをジョッギングする人たちがたくさんいる。皆、皇居の周りを左回りに回っているので一方通行となっている。反対方向に走る人はいない。
祝田橋で皇居外苑と別れ、愛宕通りを進む。右側には、法務省、弁護士会館、厚生労働省、人事院と官庁が並んでいる。左側は日比谷公園。愛宕神社は愛宕山の上にある。通りから石の鳥居をくぐると85段の急な石段となっている。講談などで大馴染みの間垣平九郎が馬で駆け登った石段である。曲垣平九郎が将軍徳川家光から日本一の馬術の名人と讃えられたのは、馬で愛宕神社の男坂を駆け上がったからだった。二つある坂のうち男坂のほうが、間垣平九郎が馬で駆け上がったと伝えられる有名な坂で、出世の石段とも呼ばれている。
芝増上寺から日比谷通りを進む。日本電気本社は、大きなビルである。この下は都営三田線の三田駅である。第一京浜と交わったところが、薩摩藩邸のあった場所。江戸開城 西郷南州・勝海舟会見之地の丸い碑がある。ここは明治時代は芝浜の海に接していたところ。落語の人情噺「芝浜」の舞台となったところでもある。皇居から三田まで1時間30分だった。歩数にすると9000歩ほどであった。江戸城無血開城となった歴史のひとときを感じてみた。