1798年(寛永10年)、初代 三笑亭可楽が 下谷神社の境内に寄席の看板をあげたのが、 江戸で最初の 噺家による落語の席だったと言われています。
寄席発祥の地碑は この200周年を記念して 1998年(平成10年)に建てられました。「寄席発祥之地」の文字は 柳家小さん師匠が書いたものである。
発祥の碑の隣に、「寄席はねて 上野の鐘の 夜長哉」という 正岡子規の句碑も建てられています。
演芸人たちの千社札が沢山貼ってありました。
浅草に「木馬亭」があります。
主に浪曲・講談の定席小屋として、昭和45年から継続しています。
特に黄金期を知る世代からの交代が進み、若手育成の点で大きな役割を果たし続けています。
打ち出し太鼓の前後、場内に古い音源(2代目虎造等)を流し、期待感を盛り上げています。
開場当初から1日1枚、講談を番組に入れ続け、浪曲の会も度々開催していた講談定席の上野本牧亭(平成23年)が無くなった現在、木馬亭は若手中心に貴重な出番を提供しています。
2階は大衆演劇専門の「木馬館」として営業をしております。芝居、日本舞踊、歌謡ショーが楽しめます。
予約済看板
浅草六区通りの電燈柱に芸能人の看板がかかっている。
浅草に馴染みの芸人たち。榎本健一、古川ロッパ、渥美清、内海桂子などお笑い芸人が多い。
その中に一枚「予約済」となっている一枚の看板を見つけた。浅草から輩出した大物芸人であり、亡くなった時に掲げるように予約をしていると噂されている。
その人は、「ビートたけし」らしい。
今や、お笑い芸人、映画監督、絵描き芸術家等多彩な才能を表している。
顔写真が表示される時はいつになるだろう。
三遊亭圓朝のお墓
東京に「谷根千」と呼ばれる場所があります。谷中、根津、千駄木の地区を称しております。
千駄木駅から三崎坂を登っていくと全生庵というお寺があります。三遊亭圓朝のお墓があり毎年8月の命日には落語家の多くの皆さんが集まり供養参りをして、一般人との交流をするイベントが催されます。
三遊亭圓朝(1839~1900)は、2代目三遊亭円生の門に入りました。18歳で真打となり、芝居道具を用いて世話物を講じ、芝居囃と言われて大いに名を挙げてから落語に専念して創作落語の自作自演に新境地を開きました。
全生庵には圓朝が収集した幽霊図が所蔵されて毎年8月には一般公開をされています。明治時代の剣客で山岡鉄舟の筆で「三遊亭圓朝無舌居士」と墓石に記されています。山岡鉄舟のお墓も圓朝の墓の側にあります。
林家正楽師匠の紙切り「少女と線香花火」
林家正楽師匠は、客からの注文に対して1分ほどで紙切りをします。
今回は少女と線香花火、パンダ、柳とカエル、打ち上げ花火などの紙切りを披露してくれました。その中で、「少女と線香花火」を頂きました。紙切りは一筆書きのように切っているので、主題を切った残りの部分も同じ模様が見えます。白い紙で切りますので、作品は色紙をバックに使用して貼り付けて見るととても素晴らしい紙切りが浮かび上がります。紙工芸の格調の高さが表出されています。
演芸場では、出演者の名前を掲示するときは、落語や講談は黒字で表し、漫才、マジック、漫談、太神楽、紙切りなどは赤字で表現します。赤字で記載した演芸を「いろもの」と表現しております。
青空球児・好児の漫才
浅草の東洋館へ行くとよく出演をしているのが漫才の青空球児・好児でいつも可笑しく笑わせてくれます。大トリで出演することが多いです。漫才界では最高年齢コンビであります。
青空球児・好児は、漫才協会所属の漫才コンビである。青空一門。 1965年に結成。1973年に第21回NHK新人漫才コンクール優勝。1979年に漫才協団真打昇進。 故郷を紹介するネタでの「ゲロゲ~ロ」のギャグ、逆さ漫才、国定忠治などが有名。漫才をするときは、センターマイクを使わない。
現在青空球児は漫才協会の会長として奮闘しています。青空好児は世田谷区議会議員としても活躍しています。