駒形「どぜう」
◆200余年の歴史
「駒形どぜう」の創業は1801年。徳川11代将軍、家斉公の時代です。初代越後屋助七は武蔵国(現埼玉県北葛飾郡)の出身で、18歳の時に江戸に出て奉公した後、浅草駒形にめし屋を開きました。
当時から駒形は浅草寺にお参りする参詣ルートのメインストリートであり、また翌年の3月18日から浅草寺のご開帳が行われたこともあって、店は大勢のお客様で繁盛したと言います。
初代が始めたどぜう鍋・どぜう汁に加え、二代目助七がくじら鍋を売り出すなど、商売はその後も順調に続きました。嘉永元年(1848年)に出された当時のグルメガイド『江戸名物酒飯手引草』には、当店の名が記されております。
やがて時代は明治・大正・昭和と移り変わり、関東大震災、第二次世界大戦では店の全焼という被害を受けます。しかし多くのお客様のご支援と先代の努力もあって、江戸の味と建物は現在の六代目へと引き継がれております。
◆のれんの由来
仮名遣いでは「どじょう」。もともとは「どぢやう」もしくは「どじやう」と書くのが正しい表記です。それを「どぜう」としたのは初代越後屋助七の発案です。
文化3年(1806年)の江戸の大火によって店が類焼した際に、「どぢやう」の四文字では縁起が悪いと当時の有名な看板書き「撞木屋仙吉」に頼み込み、奇数文字の「どぜう」と書いてもらったのです。これが評判を呼んで店は繁盛。
江戸末期には他の店も真似て、看板を「どぜう」に書き換えたといいます。
200余年の歴史を刻む、店の大事なのれんです。
鴨せいろ(蕎麦切 砥喜和)
港区三田のイタリア大使館の前の静寂なところに「蕎麦切 砥喜和」があります。店前の大きな暖簾に引きずられて初めて入りました。
江戸の「粋」にこだわり、江戸前蕎麦と和食料理を誂える蕎麦店として人気があるお店です。長年培った和食の技術を礎とし、更に砥き(みがき)をかけ続けてゆくよう屋号「蕎麦切 砥喜和(ときわ)」を名乗っています。風格のあるお店です。
お店はランチ時、ほぼテーブル席が埋まっているところで、カウンター席に案内される。お昼御膳セットの豪華なメニューがありましたが、いつもの「鴨せいろ」を注文しました。この鴨汁の美味しいこと。新鮮な蕎麦をつけて食べると美味しくてどんどんのどを通っていきます。残った鴨汁は蕎麦湯で割りゆっくりと呑みますが、これもまた美味しくてお代わりは続きます。
桜田通りから横に入ったところにあるお店ですが、食文化として美味しい蕎麦なので常連客も足を運んでいるようです。
「深川丼ぶり」(深川釜匠)
深川へ行ったので深川めしを食べるために、深川江戸資料館のすぐそばにある深川釜匠へ入りました。深川めしと深川丼ぶりがありましたので、この日は深川丼ぶりを注文しました。テーブルの上にはらっきょう、ガリ、大根の漬物がおいてあり自由にとって食べれます。
深川丼ぶりが昆布と一緒に運ばれてきて、あさりの多さにビックリしました。ネギ、油揚げ、生卵とあさりが出し汁に入っていて下のご飯が見えないくらいあさりがたくさん入っていて満足しました。あさりをこんなに多く味わって堪能しました。昔漁師がまかない飯としてあさりを多く入れたものを食べていたことが深川めしの元となったようです。
天保元年創業「いせ源」
神田須田町1丁目界隈は、戦災を免れた数多くの建物の飲食店が現存しております。東京都選定歴史建造物に指定されております5店舗を紹介します。
①「いせ源本館」 創業天保元年(1830年)というから195年の歴史があります。都内唯一のあんこう料理専門店。江戸末期から続く秘伝の割り下でつくるあんこう鍋が絶品です。
②「神田まつや」 創業明治17年(1884年)の老舗江戸前蕎麦店。高度なそば打ち技術、香り、味、喉ごし、甘くて濃いめんつゆとお店の人のハイクオリティーなところが人気のあるところです。
③「ぼたん」 創業明治30年(1897年)の老舗鳥すきやき料理店。
④「竹邑(むら)」 創業昭和5年(1935年)木造入母屋造り3階建て。粟ぜんざい、揚げまんじゅうの伝統の甘味が楽しめる。この竹邑をこよなく贔屓にしていた池波正太郎は「むかしの東京の汁粉屋、その中で汁粉の味も店の人たちの応対もしっとりと落ちついている」と記述している。
⑤「藪蕎麦」 明治13年(1880年)創業。蕎麦御三家の一つ、老舗として暖簾を守り続けている。しかし平成25年(2013年))失火により焼失した。翌年の平成26年(2014年)に再建し鉄骨平屋建として再開した。そのために歴史建造物の指定は除かれた。
この近辺は散策して、食事をするには良い場所です。
大黒家の「天丼」
浅草へ行ったときに伝法院通りにある大黒家の「天丼」を食べました。店の前には入店を待つ人が並んではいましたが、通常の行列より少なくてすぐにお店に入ることができました。
大黒家は1887年(明治20年)、浅草にそば屋として開業しました。1910年頃(明治末)に、そば屋から天ぷら屋となり、屋号が「大黒屋」から「大黒家」に改称したようです。浅草の老舗の飲食店で人気のあるお店です。
天丼は、海老2本とかき揚げを注文。この店の天麩羅は、ごま油だけ使ってキツネ色に揚げたものが特徴です。創業以来、変わらず守ってきた甘辛く濃厚な独特のタレが特徴です。
浅草には、美味しいメニューのある伝統のお店がたくさんあります。
はつ花のそばは、そば粉と地卵、そして自然薯だけで打った独自製法で仕上げています。はつ花の自然薯そばは茹で上げたそばの水分を十分に取り除き、乾いた状態で食べる独特な風味が特色です。
山かけそばを注文しました。温かいそばに自然薯の山かけをのせた逸品です。温かいつゆと、ふんわりとろとろの自然薯山かけとの相性は絶品でとても美味しかったです。
あんこう料理の専門店として暖簾を掲げておりますが、当時はあんこう鍋の他にも、よせ鍋、かき鍋、白魚鍋、ねぎま鍋等々、様々な鍋料理を提供していました。しかし、あんこう鍋に人気が集中するようになり、大正時代の4代目立川政蔵の時にあんこう料理専門の店となりました。
流石に日本三大うどんに呼ばれている内容があります。
この日は天丼セットを注文しました。稲庭うどんはつめたいもりにしました。のど越しの良いうどんでとても美味しかったです。天丼も食材が良くて天つゆが甘くてうどんとの調和がとれております。
店にくる客も多種で、老夫妻、若い女性たち、外国人のグループなどがいろいろのメニューから選んで美味しく食べておりました。
稲庭干うどんの原形が稲庭に伝わり、宗家の稲庭(佐藤)吉左エ門によってその技術が受け継がれ、研究と改良が重ねられ、製法が確立したのは寛文五年(1665年)と言われています。
明治時代の内国勧業博覧会に出品して以来、宮内省御買上げ品となりました。以降、歴代の佐藤養助によって受け継がれたその技は、変わらぬ本物の味を今へと伝えているのです。
材料の選定から出荷前の検品に至るまで、「稲庭干饂飩」は手抜きを一切許されない完全なる手作業で作られています。子から孫へと伝えられ、160年守り続けてきた伝統の技が、適度な歯ざわりとつるりとした感触の極上のうまさを醸し出しているのです。 (佐藤養助商店HP)
創業は明治28年。観音様のお膝元で蕎麦一筋に120余年のお店です。
蕎麦の中でも好きな鴨せいろを注文します。
満留賀は、厳選された国産そば粉を使用し、食感が良くするために、かつ、
ゆでる時に香りが逃げないよう、蕎麦は細打ちにしています。そば、つゆ共に化学調味料などの添加物は、一切加えない自家製がいいです。
おすすめは、伝統の味を守り続ける人気メニューの鴨せいろや五目そば、天ざるなど。浅草の下町情緒を楽しみながら、伝統の味の蕎麦を堪能しました。
「パンのメニューで何か新しいものを作りたいんだけど、どういうものがいいかな?」昭和39年。店主から新メニュー考案の相談を受けた新妻の素朴な願望「ピザパイを手軽に食べたい」が生んだベストセラー。結婚したばかりの村上節子さんは、喫茶店を経営する夫からの相談に喜びを感じた。
「私はピザパイが好きでした。でも高価でめったに食べられないものでしたから、ピザを手軽に食べられたらいいと思ったのです」
山盛りのナポリタン(さぼうる2)
神保町は、書店や出版社が集中する「本の街」。特に古書店が約180店もあり、こんな美しいレトロ本屋街は世界中探してもないでしょう。
神保町に話題の老舗喫茶店「さぼうる」があります。古本屋で購入した本を珈琲を飲みながら読むのが流行りのようです。隣はレストラン「さぼうる2」です。ランチのために行列に並びやっと入店できました。店内は女性のグループ客がほとんどで、その多くの人が「ナポリタン」をオーダーしておりました。
この店の人気メニューのナポリタンは並盛でも2人前はあると思われる大盛で出てきます。山盛りと行った感じです。男性でも食べ応えがある量です。サラダ付きなので交互に食べていきます。粉チーズとタバスコを適宜かけてゆっくりと味わっていきます。途中休憩をしながらも完食をしました。久し振りに食べたナポリタンはとても美味しかったです。
看板商品は白いさらしなそばと変わりそば。
さらしなのメニューからもりそばを注文して食べました。
店内は老舗の風格があります。麻布という場所柄、外国人の利用者も多いようです。ランチ時は満席で店頭には入店を待つ長い列ができています。
更科堀井は創業寛政元年当時から大名屋敷や有力寺院などに出入りしていましたが、明治時代半ばには、皇后や宮家などにも出前を届けていました。
また、土産のそばを目籠詰めにして売り出して、麻布永坂「更科」名物として大いに評判になりました。各地に「更科」が増えたのは、この永坂の繁栄にあやかろうとしたもののようです。
江戸時代中期以来200年余に及ぶ家業の伝統を、創業の血筋を引く堀井家の手で再興したいとの思いから美味しいお蕎麦を提供しています。
当時から駒形は浅草寺にお参りする参詣ルートのメインストリートであり、また翌年の3月18日から浅草寺のご開帳が行われたこともあって、店は大勢のお客様で繁盛したと言います。
文化3年(1806年)の江戸の大火によって店が類焼した際に、「どぢやう」の四文字では縁起が悪いと当時の有名な看板書き「撞木屋仙吉」に頼み込み、奇数文字の「どぜう」と書いてもらったのです。
これが評判を呼んで店は繁盛。江戸末期には他の店も真似て、看板を「どぜう」に書き換えたといいます。
200余年の歴史を刻む、店の大事なのれんです。