新国劇創立者・澤田正二郎の墓
谷中霊園は東京では古い方の墓地であります。その中に新国劇創立者である澤田正二郎の墓があります。墓参してきました。
新国劇に興味を持ったのは15歳の時です。竹早高校の国語の国広教諭から「卒業生の緒形拳氏は新国劇に入団して活躍をしている。テレビの大河ドラマの「太閤記」で主演をしている」との話を聞いてから新国劇およびその精神を継承している劇団若獅子の芝居を観劇しておりました。
澤田正二郎の墓には、柳に蛙の劇団マークと新国劇と彫られた石碑があります。墓石の後には昭和4年3月4日と記されています。「何処かで 囃子の声す 耳の患い」と詠んだ句碑は新橋演舞場のところにあります。中耳炎が原因で急逝しました。葬儀会場となった日比谷公園には10万人以上の人が集まったという当時の人気役者でありました。
この谷中霊園には俳優の長谷川一夫、川上音二郎、本阿弥光悦などの墓もあります。また幸田露伴の小説「五重塔」の舞台となった跡地も残っています。
震災や戦災をも免れた五重塔は昭和32年に放火により焼失してしまいました。今では土台となっている石が残っております。
谷中墓地や谷根千地区にはガイドブックを手にした旅行者の姿を多く見かけました。
松尾芸能大賞の山田洋次監督
松尾芸能賞は、松尾芸能振興財団(日本の伝統ある劇場芸能の助成と振興、文化・芸能の保存と向上に寄与することを目的として、1979年(昭和54年)に松尾國三が私財を投じて設立)が創設した日本の芸能賞。毎年その年に活躍した舞台芸能の関係者を顕彰して「優秀賞」「特別賞」「新人賞」が贈呈され、また年によっては「大賞」「功労賞」「研究助成」などが贈呈される。
第20回(1999年=平成11年)には、新国劇の島田正吾氏が特別顕彰、第23回(2002年=平成14年)には、五代目中村勘九郎氏が大賞を受賞しております。
第24回(2003年=平成15年)の松尾芸能賞授賞式は東京全日空ホテルで開催されました。大賞は、映画「男はつらいよ、寅さんシリーズ」作品などで活躍している山田洋次監督でした。尚、研究助成は、新国劇の精神を継承する劇団若獅子が受賞しました。
授賞式後、山田洋次監督と南條瑞江さん(劇団若獅子)と一緒に撮影をした思い出の写真です。(2003.3.28)
友人の白鳥智佐子さんが出演をしております。
白鳥智佐子さんは、和服姿で①「忘れちゃいやヨ」(昭和11年 最上洋作詞 細田義勝作曲 渡辺はまこ歌手)と洋装姿では②「鐘の鳴る丘」(昭和24年 菊田一夫作詞 小関裕而作曲 松田敏子歌手)の二曲を歌っていました。
とても落ち着いた様子で歌うことを楽しんでいるようでした。毎年出演していることもあり、とても上手に歌を披露しておりました。
特別ゲストは、プロ歌手の出雲光一さん(徳間ジャパン)で、NHKのど自慢チャンピオン大会でグランドチャンピオンを受賞したことで、プロの道に進んで活躍中です。
今回4曲披露してくれました。①「イヨマンテの夜」(昭和25年 菊田一夫作詞 小関裕而作曲 伊藤久男歌手)、②「出雲の女よ」(平成26年 冬木夏樹作詞 弦哲也作曲 出雲光一歌手のオリジナル曲)、③「激唱~青函トンネル」(昭和60年 星野哲郎作詞 船村徹作曲 北島三郎歌手)、④「俵星玄蕃(元禄名槍譜)」(昭和39年 北村桃児作詞 長野義司作曲 三波春夫歌手」
最後の「俵星玄蕃」の歌は、歌謡あり、浪曲あり、台詞ありでとても長い唄を素晴らしい歌唱で観客を魅了しておりました。
今年は昭和100年となります。平成を通り令和の時代となっても自分たちの世代には昭和歌謡がとても馴染みがあり合っているように感じました。


「鐘の鳴る丘」を歌う白鳥智佐子さん 「昭和歌謡を楽しむ会」


ゲストは出雲光一プロ(徳間ジャパン) 出雲光一氏プロフィール
第1部は芝居「俺たちはダディじゃねえ!」 1950年代のアメリカが舞台。
ポールはパイロット。リッキーはコメディ俳優。ロックは大リーガー選手。
3人の前にウォルターという男が現れた。ルーシーという若い女は、ポップスの大スターアマンダの娘だという。「君たち3人のうち誰かがルーシーの父親に間違いないんだ!」と話す。3人は身に覚えのあるような、ないような・・・。 コメディタッチの面白い芝居となっていました。歌も入りミュージカルな場面も多くあり楽しめました。アマンダ役の小林綾子は流石うまい女優であります。歌も踊りも上手にこなして貫禄があります。
第2部は純烈コンサート2025「BIG♨LOVE」の歌謡ショーです。
台湾の盛り場の夜景が舞台全体に設置された迫力のある豪華なステージの中で、 純烈のおなじみのヒット曲から最新曲までたっぷりと魅力を発揮していました。圧倒的な女性観客のペンライトが純烈の歌にあわせて左右に揺れ動いています。客席に降りて歌う時のみ写真撮影が出来るので、盛り上がっています。歌いながら来場者に握手をして回るので皆さん喜んでおりました。
純烈ファンの女性たちが大勢来場していて、歌謡に魅されて歓声を上げておりました。
純烈は、スーパー温泉のステージから出発して、苦労しながらも精進を重ねて、今では明治座の新春公演を行うところまできました。基礎がしっかりしていて歌も上手なところがあり、多くのファンから応援をされていることは素晴らしいことです。
幕間に食べた「純烈おせち弁当」がとても美味しかったです。


スクリーンも活用豪華なステージ 観客と握手をする岩永浩昭


豪華な「純烈おせち弁当」 純烈おせちの案内
映画「キューポラのある街」
青梅には懐かしい映画文化が残っております。その一つが映画看板です。昔の映画館は映画のタイトルに合わせた看板を手書きで描いており掲げておりました。
吉永小百合の「キューポロのある街」、嵐寛寿郎の「鞍馬天狗」、月形龍之介の「水戸黄門」、片岡千恵蔵の「大菩薩峠」、三船敏郎の「用心棒」など往年のスターたち。
その他にも「月光仮面」、「赤銅鈴之助」など子供のころに馴染みのあったもの。現代劇の「東京物語」、「新しき土」、「旅路」など・・・。映画ファンにとっては昔の映画を懐かしく思い出します。
スターギャラリー
東京・日比谷シャンテ前の合歓の広場(ねむのひろば)に設置されていたスターたちの手形が、「The Star Gallery(ザ・スター・ギャラリー)」として姿を変え、ミッドタウン日比谷と日比谷シャンテをつなぐ地下通路の壁面に設置されています。
日本を代表するスターたちの手形がずらりと陳列されています。
歌の女王・美空ひばり、文化勲章の高倉健、男性のあこがれの女優・吉永小百合、新国劇の緒形拳など、日本の芸能界で活躍してきたスターたちの勢ぞろいです。日比谷へ行ったら必見の場所です。
スターギャラリー
ミッドタウン日比谷と日比谷シャンテを繋ぐ地下2階の通路には「スターギャラリー」があります。映画で活躍したスターや女優たちの手形が展示されています。
高倉健、緒形拳、吉永小百合、池内淳子、高峰秀子をはじめ多くの有名人が並んでおります。
この手形は以前は日比谷シャンテ前の広場に埋設されていましたが、ミッドタウン日比谷が完成するのに合わせて広場の模様も変えられたために地下の通路へ移転したものです。
◎辰巳柳太郎氏について
少年時代に養子に出されるも、養家を13件も転々としながら、1926年(大正15年)に旅回りの一座に入り長野で初舞台を経験する。半年後、小林一三主宰、坪内士行文芸部長の「宝塚国民座」に入団、東伍作の名で舞台に立つ。
その後、新国劇の沢田正二郎の魅力に引かれ1927年(昭和2年)、道頓堀の浪花座で公演中の沢田を楽屋に訪ね弟子入りを直談判し新国劇への入団を許される。新国劇での初舞台では『国定忠治』の駕篭かき役を演じた。
芸名を「辰巳柳太郎」と改める。芸名は師匠の沢田が辰年、柳太郎が巳年生まれだったことに由来する。1929年(昭和4年)、沢田が急死すると俵藤丈夫文芸部長によって島田正吾とともに沢田の後継者に大抜擢される。抜擢の理由は沈着冷静な島田と明るく奔放な柳太郎を合わせると沢田の芸風に似たものが出来るだろうという考えからであった。
その後『大菩薩峠』の「机龍之介」や『宮本武蔵』、『無法松の一生』、『王将』の「坂田三吉」などの主人公を豪放磊落に演じきり島田正吾と共に二本柱として新国劇を支える。
戦後になると映画界に進出し1949年(昭和24年)に『どぶろくの辰』で初出演、以降は映画でも島田とたびたび共演したのをはじめ1954年(昭和29年)には日活の映画製作再開に伴い劇団ぐるみで同社と契約、映画界においても「辰巳・島田ブーム」が巻き起こした。
しかし大衆演劇の衰退と共に新国劇の観客数は減少、1987年(昭和62年)、70周年記念公演終了後、新国劇は解散することになる。解散の2年後、1989年(平成元年)に辰巳は世を去った。
弟子に大友柳太朗、緒形拳、笠原章らがいる。
島田正吾・辰巳柳太郎の手形顕彰
1987年(昭和62年)に新橋演舞場で劇団創立70周年記念公演をうけて劇団を解散するまで新国劇の大黒柱として活躍していました。

島田正吾氏95歳の誕生会

映画「風雲三条河原」で岡田以蔵を演じる
モネがカキ養殖業者の娘であることで大島のヤマヨ水産の作業場を撮影現場に活用しておりました。ヤマヨ水産は躰道仲間の小松武さんの会社です。ドラマでは永浦水産となっています。撮影終了後にこの看板を譲り受けヤマヨ食堂のところに飾ったところ、ヤマヨ食堂に訪れる人たちが記念になると看板と一緒に写真撮影をしていくようです。
モネたちが通っていた学校のシーンでは地元の生徒たちもエキストラとして参加していました。東北地区躰道大会で優勝をした小松優さんも参加していたとのこと。
大島の田中浜は、砂浜のとてもきれいな場所で朝ドラの中でもよく撮影をしておりました。「おかえりモネ」の素晴らしいラストシーンもこの田中浜で行われたものです。
撮影終了後にヤマヨ水産に訪れた出演者の藤竜也さんと竹下景子さんはとても楽しい印象を受けたようです。ヤマヨ食堂が開店した時には竹下景子さんから役名(永浦雅代)の名前で素敵な祝い花が贈られてきたと小松武さんはエピソードを話してくれました。
朝ドラの「おかえりモネ」が終了した後、気仙沼大島のヤマヨ水産、ヤマヨ食堂に来る観光客が多いようです。


朝ドラ「おかえりモネ」の永浦水産 ドラマのモデルとなったヤマヨ水産


気仙沼大島大橋 ヤマヨ水産のカキ筏と大島大橋


気仙沼大島大橋 ヤマヨ水産小松さん一家
気仙沼内湾・魚市場
①コの字岩壁 出漁船が出発する時に乗組員の家族や友人たちが航海の安全と大漁を願い、5色のテープなどを使って岸壁からお見送りする場所。ドラマのタイトルバックの撮影地で七色の布を持って走っていました。
②浮見堂 海上の遊歩道から停泊中の漁船が並ぶ気仙沼湾の風景が展望できました。立ち姿の恵比寿像は大漁を祈願する気仙沼のシンボルです。
③PIER7 モネの職場(海のまち市民プラザ)として劇中に登場した場所。市民が自由に使えるシェアスペース、コミュニティFMラジオ気仙沼があります。
④出漁準備岩壁 劇中のフェリー乗り場までの道。道沿えを歩けば漁船がずらりと並んでいます。出港準備の漁船も見られます。
テレビの画面で見ていたところを実際に散策できてとても良かったです。


市民のコミュニティースペース コの字岩壁


浮見堂の海上遊歩道 出港準備中の漁船

大漁を祈願する立ち恵比寿像
寅さん記念館
映画「男はつらいよ」の世界を存分に楽しみことができる寅さん記念館。入口から笑いを誘います。寅さん自身が館名の看板文字を取り付け中であり、真下の床面には雪駄の片方が転がっています。
中に入るとくるまやだんご屋のセット。これは実際の撮影に使用されていた「くるまや」のセットを松竹撮影所から移設したもの。寅さんが店先で居眠りをしています。映画の中に入り込んだ気分が味わえます。
その他にタコ社長の朝日印刷所、名場面集では寅さんのマドンナたち、寅さんが愛した鈍行列車の座席の車窓には、啖呵売の名場面が再現されています。吹き抜けの中庭には、全ロケ地を焼き付けタイルで地図化してあります。
引き続き山田洋次ミュージアムでは、「男はつらいよ」以外の映画作品のほか、山田洋次監督の創作活動の資料が展示されています。中央には映画づくりのカメラや照明、録音・編集機材などが披露されています。映画ファンならたまらないコーナーが網羅されています。
今回の「国定忠治」の中で重要な役柄を演じていた山形屋籐造役の緒形拳さんも参加していました。新国劇の重鎮である清水彰さんも川田屋惣次役で出演しておりました。年齢を聞いてビックリ、なんと91歳とのことでした。赤城天神森の場で国定忠治と対峙する重要な役割を演じておりましたが、全く年を感じさせない演技でありました。本人は「役者に年はありません」と言っておりましたが、何と素晴らしい役者根性の持ち主でありましょう。
島田正吾氏との想い出の写真
新国劇の座長を長い間務めていた島田正吾氏。
昭和62年9月に70年の歴史のある新国劇の看板を下ろした後も、一人芝居に出演をしておりました。
当時、毎年5月29日、30日の二日間、新橋演舞場で上演される島田正吾一人芝居には、演劇、芸能関係者も多く来場しており、チケットが取れないとの現象も起こした名物公演でした。
島田正吾氏は98歳で亡くなりましたが、その3年前には「95歳の誕生会」が開催され参加しました。日本演劇界で最高齢となる誕生会には緒形拳夫妻や芸能関係者も多く出席されていました。
重鎮の俳優として存在感のある島田正吾氏は、スピーチの内容も素晴らしいものであり、貫禄に満ち溢れておりました。
とても素晴らしい誕生会に参加できたことを喜んでおります。
その活動写真弁士による上映会が池袋の新文芸坐で開催されていましたので鑑賞にいきました。名匠稲垣浩、再発見「映画界に入って100年」の特別企画です。長谷川伸原作 稲垣浩監督「番場の忠太郎・瞼の母」(1931年)片岡千恵蔵主演。
活動弁士は、澤登翠さんです。弁士の第一人者として国内外の公演を通して幅広い世代に活弁の魅力を伝えています。1972年松田春翠氏に入門しここまで50年の実績があります。
映像に合わせて台詞を入れていきます。出演者に合わせて声を変えています。スクリーンに映っている俳優が話しているように錯覚をしてしまう。自然と映画に見入ってしまうほど巧みな弁士の解説でした。
観客は年配者が多くおりましたが、若い人も来場しておりました。終演後には会場からは割れんばかりの大きな拍手が弁士に贈られていました。
著書は『活動弁士 世界を駆ける』(1973年)