祝嶺和子さんについて、沖縄タイムスの2005年3月5日付朝刊に掲載されていたものです。
その当時東京側の厚生省担当に配属された沖縄出身者の証言が<沖縄戦の住民犠牲者が、援護法の対象となる「戦闘参加者」として、「該当」するか否か>。最終的に決定したのは厚生省だ。その決定に携わっていたのが、沖縄県出身の祝嶺和子さんだ。
1989年に厚生省を退職するまで、中国残留孤児問題を含めて、援護畑一筋に働いた。沖縄戦当時、女子師範本科に在学していた。1945年3月、女師、一高女の学生が、看護隊として出陣するための集合時間に、空襲に遭い、祝嶺さんは間に合わなかった。大勢の同級生や後輩が「ひめゆり学徒」として亡くなった。戦後そのことは「ずっと、頭を離れることはなかった」という。
多くの友人を亡くし、生き残った元特攻隊員の祝嶺正献さんと結婚。沖縄から日本本土へ渡った後、1954年、厚生省に入省した。沖縄出身ということで「『沖縄のことをこれからやるからね、援護局につくられた沖縄班に来なさい』と上司に言われ、決まっていた配属先から異動させられた」。前年から、米軍統治下の沖縄でも、軍人軍属に対して、日本の援護法適用が始まっていた。祝嶺和子さんの異動は、援護法の適用拡大に向けた動きだったようだ。
「援護では最初に、軍人軍属の、その次に沖縄では学徒たちも戦ったらしいな、ということで、私が引っ張られたのだと思う」。当時、沖縄班の人員は7、8人。祝嶺さん以外に、もう一人県出身で、後に国民年金課長を務めた比嘉新英さん(故人)がいた。沖縄の市町村が受付け、琉球政府を経由して、厚生省に送られる援護の申請資料。
防衛隊など軍人軍属への申請書類に目を通していた同僚が、祝嶺さんに尋ねた。「普通のおじさんやおばさんも、軍のために働いたのか?」。沖縄戦では、一般住民が、武器らしい武器もなく、米軍への切り込みを命じられ、日本軍のために弾薬を運び、「集団自決」を強いられていた。