つれづれなるままに

日々の思いついたことやエッセイを綴る

常盤橋について

2024年09月13日 | 名所
 常盤橋(ときわばし)は、日本銀行本店のすぐ傍にあり、東京都千代田区大手町と中央区日本橋本石町との間の日本橋川にかかる橋です。常盤橋は2つあり、江戸城常盤橋門に通じる歩行者専用の石橋と関東大震災後の復興計画で建設された道路橋がある。

 この2つの橋は共に2連アーチの構造を持ち70mほど離れて架けられている。区別するため石橋の方の「磐」の字は「般」に「石」が使われている。
 明治になって、常磐橋は石造のアーチ橋に架け替えられたものの、手狭であったことから、関東大震災後の復興計画で幅広の常盤橋が少し離れたところに道路橋として建設された。常盤橋門は明治初期に解体され石垣のみが残っています。門の周囲は常盤橋公園となっており大きな樹木に囲まれたところに渋沢栄一の銅像が建っています。

 旧橋は東日本大震災の影響による損傷で通行禁止となっていたが、2013年より修復工事が行われ、約7年かけ東京都内で最古の石橋の復旧工事が完成して2021年5月10日から通行を再開した。2007年常磐橋・常盤橋はともに千代田区景観まちづくり重要物件に指定されました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名古屋城天守閣

2024年09月05日 | 名所
    名古屋城天守閣

    名古屋城は徳川家康が西国大名20家(加藤清正・福島正則ら)に土木工事を命じ、天守閣や櫓の建築工事は小堀遠州・中井正清ら命じ、1612年(慶長17年)に完成しました。

    天守閣の屋根に飾られている「金の鯱」は、空想上の生き物で、水を呼ぶと言われることから火除けのまじないとされてきました。名古屋城の創建時の金鯱は、徳川家の権力・財力を誇るもので、貼られた金の量は慶長大判で1940枚と言われております。

    名古屋城の中に高くそびえる天守閣は荘厳な趣を感じさせてくれます。その後、向かいにあるウエスティン名古屋キャッスルホテルの最上階のレストランから天守閣を景観を楽しみました。

 日本のお城は天守閣があるとその重みを感じます。江戸城にも天守閣と本丸御殿の復元を願っております。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人形町の由来

2024年09月03日 | 名所
 武蔵坊弁慶像

 人形町を散策していると緑道があり、その一角に武蔵坊弁慶の像が建っている。その横の掲示板に人形町の由来が書いてあります。

 江戸時代、堺町と葺屋町が現在の日本橋人形町三丁目の人形町通り西側にあり、歌舞伎小屋の中村座と市村座があった。また、薩摩浄瑠璃(薩摩座)や人形芝居(結城座)も行われていた。
 
 一般には人形遣いが多く住んでいたから人形町と名付けられたとされている。江戸時代においては、人形町は通りの名で大坂町、島町、住吉町、和泉町、堺町、芳町がこの通りに面していたが、1933年(昭和8年)に正式にこれらの町名が「人形町」という町名に変更されました。

 江戸時代初期には、遊郭で有名な吉原(元吉原)が人形町通り東側の辺りにありました。「大門通り」はその名残である。
 1657年(明暦3年)1月の明暦の大火(振り袖火事)で辺り一帯が焼失した事を機会に、幕府の命で遊郭は浅草寺裏の日本堤付近に移転したものです(新吉原)。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧岩崎邸庭園

2024年09月02日 | 名所

 旧岩崎邸洋館南面

 台東区池之端にある「旧岩崎邸庭園」に行ってきました。洋館、和館大広間、撞球(ビリヤード)室の3棟ならびに宅地が国の重要文化財に指定されています。

 洋館は、明治29年に竣工し、迎賓館として用いられていました。木造2階建、屋根はスレート葺き、外壁は下見板張りです。北面を正面とし、正面玄関部分は平面四角形の塔屋となっています。反対側の南面は1階、2階とも列柱のある大きなベランダを設けています。

 和館は、書院造を基調とした和風建築であります。明治期の大邸宅の岩崎邸では、迎賓館としての洋館に対し、生活の場としては和館が使用されていました。洋館と和館は船底天井の渡り廊下で結ばれ、当時の和洋折衷の生活スタイルを伝えています。

 撞球室は、木造ゴシック様式のビリヤード室となっています。校倉造の外観はスイスの山小屋風。洋館の地下室とは地下通路で結ばれています。

 庭園は、広大な芝庭とし、庭石・灯篭・築山などを配した和洋併置式の庭園となっています。今も残る雪見灯篭や亭跡の石敷が往時の姿を偲ばせています。

 邸宅の館内はすべて豪華な造りとなっていて感動しました。しかし撮影禁止となっており、庭園からの写真撮影のみとなりました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浜離宮の三百年の松

2024年08月31日 | 名所
 浜離宮の三百年の松

 浜離宮の大手門を入ったところに「三百年の黒松」(男松)があります。

 今から300年前に徳川第六代将軍の家宣が、庭園を大改修したときに、その偉業をたたえて植えられた黒松。
 太い枝が低く張り出し、いまなお堂々たる姿を誇っている。

 すぐ隣には小ぶりの赤松(女松)がたっています。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カテドラル関口聖堂

2024年08月24日 | 名所

 カテドラル関口聖堂

 文京区関口3丁目に「カテドラル関口聖堂」があります。

 1920年に築地教会から関口教会に東京の司教座聖堂(カテドラル)が変更となり現在に至ります。第2次世界大戦時の東京大空襲で聖堂は消失しました。
 
 戦後、ドイツ・ケルン教区の多大な支援により1964年12月8日には、世界的な建築設計者である丹下健三氏の設計による東京カテドラル聖マリア大聖堂が建設されました。丹下健三氏の葬儀もこの大聖堂で行われました。
 

 この大聖堂は上空から見るとキリスト教の象徴である十字架を象っています。大聖堂の中に入ると、重厚感のあるパイプオルガン、天井が高く、天窓から降り注ぐ光は神聖な空間をより神秘的に彩り厳粛厳かな感じを受けます。
 聖母マリア像や鐘の鳴る塔もあります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

勝鬨橋の中央部

2024年08月23日 | 名所
 勝鬨橋の中央部

 かつて東京は「水の都」と呼ばれましたが、東京にはいったいいくつ橋があるか知ってますか? 東京都建設局が管理する道路橋は、なんと約1200もあるそうです。
 そのなかでもっとも人気なのを独断で決めれば、どう考えても隅田川にかかる「勝鬨橋(かちどきばし)」です。

 勝閧橋は、東京都中央区の築地と月島を結ぶ全長246mの可動橋で、船を航行させるため、橋の中央が「ハの字」に開きました。国内に現存する最古の「跳ね上げ橋」ですが、残念ながら、交通量が増大するにつれ開閉は減り、1970年11月29日午前7時すぎに橋が閉じて以降、2度と開いていないのです。

 勝鬨橋は、昭和15年(1940)に開催予定だった万国博覧会にあわせ造られました。博覧会は「紀元2600年」を記念し、東京オリンピックと並んで世界に日本の実力をアピールするために計画されました。
 現在の中央区晴海から江東区豊洲あたりを会場にする予定で、そのメインゲートとして作られたのが勝鬨橋でした。
 総工費418万円(当時)をかけ、1940年6月14日に開通。当時、その美しさと壮大さから「東洋一の跳開橋」と呼ばれました。

 勝鬨橋データ
 ●長さ246m、幅22m、可動部25.8m×2、固定部86m×2
 ●着工1933年6月10日、完成1940年6月14日(工事に7年間)
 ●1日5回開閉。昭和22年から1日3回、昭和36年から1日1回。最盛期(1950年)の開閉回数は年829回。
 ●安全装置として3系統のブレーキ
 ●設計:安宅(やすみ)勝(東京市技師)
 ●施工:東京市、錢高組、石川島播磨重工業、川崎重工業、横河ブリッジなど。外国の支援を断り、完全に国内企業だけで建造しました。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋山郷の想い出 切明河原の野天温泉

2024年08月21日 | 名所
 切明の河原野天温泉

 秋山郷の雑魚川と魚野川が合流して中津川となる。その合流したところに切明温泉があります。保養センター雄川閣に温泉もあるが、ここは魚野川の河原の野天温泉が人気があります。河原に温泉が湧き出していて、熱い時には川の水を入れ込んでお湯の温度を調節している。

 川の水量が多いため、温泉が湧き出ているところまで川の水が来ている為に、河原の適当な場所にシャベルで自分専用の野天風呂が出来ます。
 白鳥勝彦さんは、足湯を楽しんでいました。温泉の泡がぶくぶくと湧き出ています。足元を温めるだけで、全身がリラックスしてきます。肩のコリが無くなった。と感想を述べておりました。

 温泉温度は54℃。効能は、神経痛・関節痛・五十肩・うちみ・くじき・運動麻痺に効くようだ。(2010.5.7)


コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国の天然記念物 来宮神社の「大楠」

2024年08月20日 | 名所
 天然記念物に指定されている来宮神社の「大楠」

 熱海市の来宮神社に国の天然記念物に指定されている「大楠の大樹」があります。
 祝嶺の型研究会奉納演武のときに、来宮神社の本殿裏手にある大楠の大樹を見てきました。樹齢2000年と銘打ってあるだけにその巨大さにはびっくりした。

(来宮神社HPから)
 二千年の樹齢にあやかり、古くからこの大楠を一廻りすると一年寿命が延びると伝えられています。また、願い事のある人は思うことを誰にも云わず一廻りすると願い事がまとまるとも伝えられています。

 キノミヤ信仰
 古代の日本民族は、大きな木、岩、滝など巨大な自然創造物に神々が宿っていると信じ、其の自然創造物の前で祭祀を行い、感謝し祈りを捧げる神籬磐境信仰を持っておりました。
 時が流れ建物の文化が進み、それらを中心に社殿、鳥居が建立され神社が形成されたといえます。
 熱海鎮座の来宮神社は江戸末期まで『木宮明神』と称し、現在の『来宮』ではなく、『木宮』の字で古文書等記されております。
 また伊豆地方に『キノミヤ神社』という社は十数カ所あり、各社とも必ず千年以上の御神木があることから、『木』に宿る神々をお祀りする神社として崇敬を集め、古来生活文化に欠くことのできない木に感謝する信仰を有しておりました。

 今から百二十年前の嘉永年間に熱海村に大網事件という全村挙げての漁業権をめぐる事件が勃発し、その訴訟費等捻出のため、境内に聳え立っておりました七本の楠のうち五本は伐られてしまいました。
 古記によると、残されているこの大楠をも伐ろうとして樵夫が大鋸を幹に当てようとしたところ怱然として白髪の老人が現れ、両手を広げてこれを遮る様な姿になると大鋸は手元から真っ二つに折れ、同時に白髪の老人の姿は消えてしまったそうです。
 これは神のお告げであるとして村人等は大楠を伐ることを中止致しました。この木が即ち現在ある御神木であります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

道灌山(どうかんやま)について

2024年08月16日 | 名所
 道灌山(どうかんやま)の公園

 山手線の西日暮里駅の西側に道灌山に(どうかんやま)があり、今は公園になっています。

 道灌山(どうかんやま)は、東京都荒川区西日暮里四丁目にある高台であります。上野、鶯谷、田端、王子へ連なる台地の一際狭く少し高い場所にあたります。名称の由来は江戸城を築いた室町時代後期の武将・太田道灌の出城址という説があります。

 古くは西は富士山、東は筑波山が見える景勝地であった。
 江戸時代には、薬草の採集地として、また、虫の音の名所としても知られていた。
 一日中いても飽きない場所で「ひぐらしの里」とも呼ばれて日暮里の名称が今でも残っています。

 月見の場所としても、秋には虫の声を聴くために多くの人が来たことも記されておりました。

 明治時代には、この台地を訪れた正岡子規が「山も無き 武蔵野の原を ながめけり 車立てたる 道灌山の上」と、ここからの眺望を短歌に残しています。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浅草寺の五重塔

2024年08月14日 | 名所

 五重塔と東京スカイツリー 

 浅草寺の五重塔は、942年(天慶5年)、平公雅(たいらのきんまさ)によって建立されたのが始まりと伝えられています。その後、倒壊・焼失を重ねたがその都度再建されてきました。現在の塔は、1945年(昭和20年)3月10日の空襲で焼失後、1973年(昭和48年)に再建された鉄筋コンクリート造、アルミ合金瓦葺きの建物で、高さは約48メートル。
 
 再建前の旧五重塔は、1648年(慶安元年)、徳川家光の寄進によって本堂・仁王門とともに建てられたもので、国宝に指定されています。塔の最上層には1966年(昭和41年)に、スリランカ国イスルムニア王立寺院より請来された仏舎利が納められています。

 浅草寺の境内からは、五重塔と東京スカイツリーの両方が見られるところがあります。古い時代の塔と新しい時代のスカイツリーのコラボが面白いです。



浅草寺の五重塔

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

清澄庭園

2024年08月11日 | 名所
 岩崎家が築いた名石の庭「清澄庭園」

 東京都の指定名勝となっている「清澄庭園」へ行きました。この日は庭園ガイドを無料でしてもらいました。

 「清澄庭園」は、明治11年に岩崎彌太郎が3万坪の一帯を取得して、三菱社員の慰安や貴賓を招待する場所として造園をして「深川親睦園」として開園しました。周囲には全国から取り寄せた名石を配して「回遊式林泉庭園」として完成をしました。池には鯉、亀、すっぽんなどが多く泳いでいました。

 関東大震災と東京大空襲の時には被災市民の避難場所として提供をされました。その後東京都に寄付をして「清澄庭園」として復旧、整備されてきました。

 池に突き出るようにして建てられた数寄屋造りの建物「涼亭」は、この庭園を日本情緒豊かなものにしています。
 庭園ガイドにより約一時間説明を受けてとても参考になり素晴らしい日本庭園を満喫しました。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本水準原点

2024年08月08日 | 名所
 日本水準原点標庫

 国会議事堂の前から皇居方面を眺めると右側には行政を行なう各省庁の建物が並んでいる。桜田門から皇居は植物の木々が多いところだ。国会議事堂の前庭公園はとても静かなところである。その中に「日本水準原点」が建立している。

(国土地理院より)
 ◆日本水準原点標庫の説明
 明治24年(1891)築。ローマ神殿の形式を持つ古典主義建築。ここにある石造りの建物の中には、国内の高さの測量の基準になる日本水準原点が納めてあります。

 土地の高さは、平均海面を基準に取りますが、実用的には地上のどこかに、高さの基準となる点を表示しておく事が必要です。このため、明治24年(1891年)に水準原点がつくられ、当時、隅田川河口の霊岸島で行われた潮位観測により、水準原点建物内部の水晶板のゼロ目盛りの高さが、東京湾平均海面上24.500mと決定されました。

 水準原点のあるこの地は、山の手の台地で、原点の礎石は、地下10mあまりの強固な地層から築いてありますので、下町の沖積地のように甚だしい地盤沈下を起こすおそれはありません。しかし、大正12年(1923年)の関東大地震では、この付近一帯に相当の地殻変動があり、測量の結果、原点の高さは東京湾平均海面上24.4140mと改定され、この値が今でも使われています。

 現在では、神奈川県三崎の油壺験潮場の潮位観測と定期的に行われる水準原点と油壺間の水準測量によって水準原点の高さを点検しています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

深川江戸資料館

2024年07月27日 | 名所

 深川江戸資料館

 江東区白河に「深川江戸資料館」があります。ここには江戸時代末(天保年間)の深川佐賀町の町並みを実物大で再現していますので、タイムスリップした感覚を味わえます。

 表通りには、大店(肥料問屋・土蔵)・八百屋・米屋があります。長屋は壁で仕切っただけの庶民の住み屋で江戸では多くの人々が長屋住まいでした。

 棒手振(あさり・シジミなどを天秤棒担いで売る)・米屋の職人・船宿の船頭・三味線の師匠(読み書き、裁縫も教えている)・木場の木挽職人(壁には商売道具の大鋸がかかっている)。

 掘割には火の見櫓(最上階には火事を知らせる半鐘がつるされている)・船宿(猪牙舟を使って船頭が人や荷物を搬送、飲食や宴会もできる小料理屋のような場所)。

 7月は七夕飾りがしてありました。季節により趣向を凝らしています。江東区の職人や芸能についての映像や展示物もありとても参考になります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

漱石山房記念館

2024年07月19日 | 名所

 漱石山房記念館(新宿区早稲田南町)

 夏目漱石が晩年の九年間を過ごした早稲田南町の旧居は「漱石山房」と呼ばれ、今は「新宿区立・漱石山房記念館」として、漱石に関する詳細な資料を展示してあります。館内の展示順路標識は「吾輩は猫である」から猫が案内しております。 
 

 展示物の資料の中には、執筆原稿の実物や出版本などの他、幅広い交流人物についての説明があります。漱石の実寸大の模型のところは撮影ができます。
 

 漱石山房記念館は、7年前に新宿区が建設したものです。建物の前の道はきれいに整備されており、周りは珍しい植物が植えられております。裏手には漱石公園となっており落ち着いた雰囲気が醸し出されていました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする