烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

他者の苦痛へのまなざし

2006-06-02 21:41:51 | 本:社会

『他者の苦痛へのまなざし』(スーザン・ソンダク著、北條文緒訳、みすず書房刊)を読む。戦争を伝える写真・映像について本書では、写真の持つ政治性について様々な角度から論じられている。それぞれに興味深かったが、特に第六章でそうした映像が伝える世界の苦痛を私たちがどう受け取るべきなのかという倫理的問題が論じられる。



写真が遠い土地での苦しみについてもたらす情報に関して何をなすべきだろうか。人びとは自分たちの身近にいるものたちの苦しみをしばしば受け入れることができない。


感じることが必ずしもよいとはかぎらない。周知のように、感傷性は残忍さの嗜好と完全に両立する。


感情を鈍化させるのは受動性である。無感動あるいは道徳的・感情的知覚麻痺と形容される状態は感情に満ちていて、その感情は怒りと挫折である。だがどのような感情が望ましいかと考える場合、同情を選ぶのは単純すぎる。


同情を感じるかぎりにおいて、われわれは苦しみを引き起こしたものの共犯者ではないと感じる。われわれの同情はわれわれの無力と同時に、われわれの無罪を主張する。


現実と対峙した時の自分の感覚を信じることの重要性を特に強調する。戦争をはじめとして悲惨な映像に無感覚になっている現代人に必要なのは「現実にたいして十分反応する態度」なのだ。だからメディアという媒体によってこそ「現実」が作られる、すなわち再現されるものが「現実」であるという解釈を彼女は批判する。



現実がスペクタルと化したと言うことは、驚くべき偏狭な精神である。それは報道が娯楽に転化されているような、世界の富める場所に住む少数の知識人のものの見方の習性を一般化している。


苦痛というものは極めて個人的なもの(誰かの苦痛を代わりに引き受けるということが不可能なという意味で)だけに、その姿を写した写真がどれだけ忠実にその苦痛をすくい取っているかということが問われる。被写体と対峙した写真家に責任というものが生まれるのもそこにあるだろう。また同時にその姿を目の当たりにする私たちにも責任が生まれる。この責任の重さを背負いかねるとき、それはスペクタル化されたものなのだという現実から目を逸らす解釈の誘惑に落ちてしまうのだろうか。見たくないものが目の前に出現した時、目を閉じればそれがなくなると信じている浅薄な批評家を彼女は痛烈に非難しているのだ。