学芸員のちょっと?した日記

美術館学芸員の本当に他愛もない日記・・・だったのですが、今は自分の趣味をなんでも書いています

芥川龍之介『奉教人の死』

2019-10-08 20:03:55 | 読書感想
文章のスタイルのことを「文体」という。言葉を書くことのできる人なら、誰でもこの文体は持っているが、面白いことに人それぞれ違う。人は小説を通して文体を学ぶことが多い。そもそも、今の私たちが使っている文章自体が、近代の言文一致運動の小説家たちの影響を受けている。だから文体が人それぞれ違う、というのも、その人がどんな本を読み、あるいはどんな小説を読んできたか、という経験によるものが大きいのだろう。

さて、かつて、丸谷才一は『思考のレッスン』のなかで、小説家の文体に気を付けて読め、と書いた。小説家は「文体」を意識する。芥川龍之介の『奉教人の死』もそうした小説のひとつである。舞台は500年前の長崎。孤児「ろおれんぞ」はキリスト教の「えけれしあ」(寺院)で育ち、みなから愛しまれるものの、商家の若い女性と縁を持った疑いをかけられて「えけれしあ」を強制的に追い出される。天涯孤独のみとなった「ろおれんぞ」だったが、その商家が大火事になった際に…。この小説は「ござる」とか「じゃ」の言葉が語尾に使われている。この一風変わった文体は、小説の解説によれば『天草本平家物語』の談話口語体にならったという。つまり、過去の文体をハイジャック(丸谷風に言えば)して、桃山時代の世界を映しだそうとしたといえる。文体が小説の世界を形作る典型のような小説だ。

私は学芸員という仕事柄、文章を書く機会が多い。企画展の開催概要、カタログの原稿、作品解説、学会誌への論文のほか、依頼されるものとしては本や雑誌への寄稿もある。さらに私の場合には趣味でこのブログを書いているから、言ってみれば人生の大半は書くことに費やしているようなものだ。文章を書くとき、私は読み手を意識している。例えば、開催概要や作品解説は単純明快に、カタログの原稿や論文は理路整然と、依頼された原稿は読み手に応じて先にあげた2つをミックスさせたような書き方をする。私は小説家ではないから言葉を操ることはできないが、文体への興味は尽きることがない。

ガラスの天井

2019-10-06 20:28:20 | 仕事
9月30日の日本経済新聞に「〔ガラスの天井〕美術館も破ろう」という記事が出ていた。「ガラスの天井」というのは、働く女性が職場で昇格するうえで見えない壁があるという表現である。記事によると、全国の美術館の学芸員の割合は女性が多いものの、美術館の館長となると男性が圧倒的に多いという現状を取り上げていた。(2018年の文部科学省の調査によると、男性に対して女性の学芸員は60%であるが、館長職の女性の割合は20%以下に下がる)実際、私の職場も、周りのお世話になっている美術館の学芸員も、圧倒的に女性の学芸員が多く、そして館長職は十中八九男性である。

私の経験上、館長職に至るまでにはおおよそ3つの道があるようだ。ひとつは、勤務している美術館の学芸員が昇格して館長職に就くもの。2つ目は、他の美術館や大学で研究の実績を重ねてきた人材が招へいされて館長職に就くもの。3つ目は、美術館とはあまり関わりのない行政職が人事異動で館長となるものである。私の手元に正確なデータがないために想像でしか言えないが、印象としては2つ目のケースが全国的に多いように見受けられる。学芸員として働いている私の立場から言えば、美術館として理想的なのがひとつめ。その美術館の収蔵品にも熟知しているし、問題や課題は把握しているし、なにより市町村民との信頼関係を築けていることが大きな強みになるからだ。

私は、女性の館長職の比率を着実に上げていくならば、このひとつめの道を推進することが現実的であると考えている。というのは、単純に考えれば60%の女性の学芸員がそのまま昇格して館長職に就くことができれば、男性と女性の館長職の比率はほぼ五分五分になるからだ。さらに地域創生が大きな目標になっている現在の行政側としても、上記のようなスキルを持った学芸員を館長に昇格させることができれば、地域のためにも大いにメリットがあるから喜ばしい。もちろん、館長となるからにはマネジメントのスキルが必須だ。男女問わず、学芸員のうちにそうした経験も積んでいく必要があるだろう。現状では、今すぐに「ガラスの天井」は破れないかもしれない。だが、近いうちに破れるのではないか、というのが現場で働く私の実感である。

北原白秋の短歌

2019-10-05 21:09:19 | 読書感想
これまで生きてきて、短歌というものにはほとんど縁がなかった。短歌で知っていることといえば、5、7、5、7、7のリズムがあって俳句よりは長い文節であること、俵万智さんのサラダ記念日がとても有名であること(これは学生時代に教わった数少ない短歌の記憶である)ぐらいだろうか。けれども、このたび縁あって北原白秋の歌集を調べることになった。縁あって、というのは、要するに仕事が関係しているのである。仕事が関係すると、受動的な見方から能動的な見方に変わる。そのせいか、短歌の持つ深みを今さらながら感じている。

白秋の歌集のなかでも『桐の花』(1913年)は、彼自身が若いせいか、かなりの欲が出ていて、それが人間らしくて面白い。


・あまりりす 息もふかげに燃ゆるとき ふと唇をさしあてしかな

・くさばなの あかきふかみにおさへあへぬ くちづけのおとのたへがたきかな

・洋妾(らしゃめん)の 長き湯浴をかいま見る 黄なる戸外の燕のむれ

・すっきりと 筑前博多の帯をしめ 忍び来し夜の白ゆりの花

・なつかしき 7月2日しみじみと メスのわが背に触れしその夏


この辺りの短歌はとてもエロティックな印象を与える。美術と同じで文学にも「隠喩」というものがある。これはつまり、エロティックなものであれば、いやらしい文言による直接的な表現を避け、比喩を用いることで読み手のイメージをいっそう膨らませると手法だ。もちろん、この隠れた比喩を知らないと文字の上辺だけしか見えないことになる。私は堀口大学『月下の一群』の文庫本を初めて読んだとき、まるでちんぷんかんぷんであったのだが、その解説を読んで隠喩の面白さについて教わった。要するにエロいことをエロく言わないテクニックだ。これを応用して白秋の短歌を読んでいると、何となく彼の隠れた声が聞こえてくるようで、また、その表現力に驚かされるのだ。

さて、私が最もお気に入りの短歌は次のものである。


・君かへす 朝の鋪石さくさくと 雪よ林檎の香のごとくふれ


「さくさく」とは雪を踏んだときの音と、林檎を食べたときの音にかけている表現である。そして「林檎の香」と来る。林檎のような甘い香りをした女性が「君」だったのだろう。さすが白秋と言わざる得ない。


志野と瀬戸黒

2019-10-04 18:08:36 | 展覧会感想
学生時代、何気なく入ったお店の棚に、湯呑が大切に飾られているのを見かけた。それは燃え上がるような真っ赤な色をしていて、私が普段使いをしている湯呑とは明らかに違うものだった。値段を見ると2万円とある。私は家に帰ってからも、翌日になってからも、その湯呑のことがどうしても忘れられなかった。その湯呑を何としても手に入れたい。それから、せっせとアルバイトをして、数か月後ようやくその湯呑を買い求めることができた。学生の買い物にしては不相応なものだと思ったし、湯呑にそれだけのお金を使ったことで親からも驚かれたが、以来、私の大切な湯呑となった。あとになって、それは志野焼という焼物であることを知ったのである。

いまサントリー美術館で「黄瀬戸、瀬戸黒、志野、織部 美濃の茶陶」展が開催されている。主に16世紀から17世紀にかけ、美濃で作陶された焼物がずらりと並んでおり、十分に見ごたえがある。見ごたえがある、というのは、茶器1点1点に言葉に尽くせない素晴らしさを感じることのほかに、その茶器がどういう歴史をたどってきたのか、という物語性にまで追及しているところにある。人間の寿命は長くても100年、だがこれらの茶器は400年、500年の長い道のりを歩み、その間、茶器に魅了された多くの人たちが大切に守り続けてきた。本当に良いものというのは時代を越えると言われる。今日でも通用する造形と装飾、そこに歴史の重みが加わるとき、これらの茶器に自然と頭を下げたくなる。

かつて私は真っ赤な志野焼に心が惹かれた。だが、人間の趣向は移り変わるものである。この展覧会を見てから、瀬戸黒の言い知れぬ美しさに魅了されている。家に帰ってからも、翌日になってからもどうしても忘れられない。これは学生時代とまるで同じである。瀬戸黒のことをもっとよく知りたい。展覧会をきっかけにして日頃の楽しみなことがひとつ増えた。これは嬉しいことである。

ジュリアン・オピー

2019-10-02 20:58:44 | その他
柳宗悦は「工藝的絵画」(1941年)のなかで次のような文章を綴っている。

「すべての無駄が省け、なくてはならないものが残る。そこにはいつも不用なものへの省略があり、入用なものへの強調が伴う。これこそ模様の性質ではないか。」

私はイギリスのアーティスト、ジュリアン・オピーの作品を観るとき、いつも、柳のこの文章が脳裏をかすめる。

ジュリアン・オピーの作品を知ったのは、もう10年ほど前になろうか。茨城県の水戸芸術館へ行ったとき、ミュージアムショップで彼の画集と出会い、一目で好きになった。それ以来、本物の作品を見たいと願っていたが、なかなかその機会は訪れず、ようやく今年の夏に東京オペラシティアートギャラリーでお目にかかることができた。

私は彼の作品の全容を知っているわけではないが、それでも人物像を多く手掛けているイメージがある。その特徴は点と線だけで表されるシンプルな画面、といえば簡単だが、そのためには先の柳の言葉の通り「不用なもの」をできるだけ省き、模様のように「入用なものへの強調」がなされる必要がある。その残されるべくして残ったものを観るとき、私はあることを思う。それは、一見複雑なもので世の中は構成されているように見えるが、その本質はごく単純なものではないかということだ。仕事に置き換えても、ひとつの事業に対して色々な問題が生ずることがある。だが、その問題の根本的な部分は実はとても単純なこと、と考えることもできるだろう。

東京オペラシティアートギャラリーでの展覧会では、五感を刺激してくれるインスタレーションが多く展示されていた。やはり作品を実際に見ることのできる経験は大きい。我々の社会とは何なのか。ジュリアン・オピーからのシンプルな問いが発せられているようだった。

芥川龍之介『黒衣聖母』

2019-10-01 20:44:10 | 読書感想
私は幽霊のようなものを見たことが2度ほどある。そしてなぜか2度とも高校生の時分であった。1つ目は部活動の帰りに同級生3人と体験したもので、あまりの怖さに自転車で15分かかるところを5分で家へ逃げ帰った。もう2つ目は窓越しに幽霊と目が合ったもので、これはじわじわと恐怖が湧いてきて、今思い出してもぞっとする。私はこれを曇りガラスの幽霊事件と呼んでる。

芥川龍之介の『黒衣聖母』も背筋が冷たくなる小説である。「私」は黒檀で出来た黒衣の聖母子像を友人に見せられる。聖母子像の多くは白磁が多いことから、この黒くて不気味な聖母子像に「私」は見入ってしまうのだが、その心情を察した友人から像にまつわる不思議な話を聞かされる。実は、この像に神々が決めた運命(人の命の長短)を動かそうとする願い事を絶対にしてはならないことになっていた…。

短編ながら、なかなか気味の悪い小説である。巻末の解説によると、この小説の下敷きにはプロルペル・メリメの影響があるらしい。なお、蛇足だがメリメの小説ほどは怖くはないとの指摘もされている。それでも私は『黒衣聖母』が怖かったが、今のところチャールズ・ディケンズの『信号手』が最も怖かった。あと、フィクションなのかそうでないのかはわからないが、若き日の佐藤春夫と稲垣足穂が体験した幽霊アパートの話も、読んでいて身体が震えたことを覚えている。

暦の上では夏はとっくに終わり、今日からもう10月であるが、戸外は未だにむしむしと暑い。まだまだ怪談話を楽しめる気候は続きそうだ。