真心がなければ本物ではない
子曰わく
人にして仁ならずんば、礼を如何(いかん)せん。
人にして仁ならずんば、楽(がく)を如何(いかん)せん。
安岡定子先生
孔子先生はおっしゃった。
「人でありながら、仁の心を失ったら
礼をどうするのか。
楽をどうするのか。
仁の心がなければ意味がない」
八佾三―3
礼は、社会規範を形にしたもの。
・・・
社会のルールです。
楽はそれに伴う音楽ということになります。
今の私達にはピンときませんが
孔子先生の生きた時代には、音楽はとても
身近なものでした。
祭礼の際には必ず音楽があり、
誰のための式典なのか
あるいはその主催者や内容によって
楽曲の種類も異なります。
(ポカポカ地蔵)
へえ~そうなんだ
音楽を聞けば、いま何の祭礼をやっているのか
分かるということじゃね~
楽器を奏でること、音楽を鑑賞することは
立派な大人になるために必要な教養だったのです。
礼楽は必修科目なのです。
当然孔子先生の弟子達も、日頃からしっかり
学ぶように言われています。
どんなに学問ができても社会人として
実社会でやっていけなければ意味がないからです。
では、礼楽も、知識や技術だけを身につければ
いいのでしょうか。ここでもまた仁が重要になります。
形だけを整えて技術だけを磨いても
真心がなければ本物ではないと先生は考えました。
何事も心が籠(こも)って初めて
人に伝わるものなのですね。
(ポカポカ地蔵)
礼は「社会のルール」
横断歩道を渡ろうとすると一向に車が止まらない。
運転者は老若男女、年も性別も関係なく止まらない。
これが今の現状の「社会ルール」
「仁」真心が根底にないと
どんないい車に乗っていようと
ウンザリしちゃうよね