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奈良『多聞城跡』で松永弾正久秀と蘭奢待は

2016-02-15 10:31:50 | 散策
           若草中学校よりの東大寺方面を望む
昨日は朝から孫のミニ・バスケットの大会があり、
鴻ノ池にある奈良市立中央体育館に出かけました。
 
初孫の成長した違う一面も見られ、ありがたいことです。
第一試合は勝つことができ、
第二試合まで90分ほどあり、散歩を兼ね
以前より気になっておりました、『多聞城跡』を訪れようと
東側へ足を、付近は新興住宅街へと変貌しておりますが、
若草中学校の切通し(空堀)に至り、斜面状を下り降りると、
佐保川に突き当たります。住宅街から上り坂を中学校へ、
そして中学校の正門前には、こんな階段が
 
毎日生徒たちが、昇り下りし、大変ですね。
ふと横に、『多聞城跡』の石碑があります。
でも、この城跡の案内板も見当たらず、
このがけが、石垣跡かもと思いながら、ウロウロ
付近に、多数の石仏が集められ祀られており、
後で調べると、なんとこれは石垣の名残だそうで、
築城主は、茶人としても有名な『松永弾正久秀』でした。
こんな経路で歩いております。

校舎までの急な階段を登りきり、
一息ついて東側に目を転ずれば
東大寺から二月堂そして若草山、南には興福寺まで見渡せ、
なかなかのロケーションです。
 
城が作られる要害の地であることが、よく分かりました。
奈良の人は、奈良時代のことには詳しいですが、
戦国時代の奈良のことは私を含めダメですね。
奈良での松永弾正久秀は、平重衡と並び大仏殿に火矢を放ち、
大仏様の首を落とした大悪人とされておりますが、
(久秀の仕業とされているが、実際は三好方の失火説が有力)
最近奈良では、わび茶の祖、珠光茶会も開催されており、
茶人としての松永弾正久秀にも光を当ててほしいものです。

松永久秀はこの多聞山城を1560年に築き、多聞櫓とよばれる
日本初の四層の櫓を持つお城として知られ、そのすばらしさは
1565年にポルトガルの宣教師で訪れたアルメイダが
「天国にはいったような感じがする。世界中でこのような
美麗な建物がほかにあるとは思われない」と述べております。
1574年11月に、織田信長が正倉院に伝わる名香「蘭奢待」を
切り取った際に多聞山城にも立ち寄っており、
あの『安土城』はこれを真似たといわれ、嫌った?
信長は後に、多聞城を壊させております。
また多聞城内に6畳と4畳半の少なくても2つの茶室、茶亭があり、
茶会が行われたと『茶会記』にも述べられており、
後に織田信長へ献上することになる「付藻茄子」や、
信貴山城が落城時に献上を嫌い、叩き割ったとされる「平蜘蛛窯
の名も見受けられ、その他には松本天目茶碗、天下一合子、
珠徳象牙茶杓などの茶器名物を集めております。

なお列福が予定される高山右近も松永家臣だそうです。

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