不定形な文字が空を這う路地裏

はじめから手遅れ

 

 

ぼくにしてみればそれはとても上手く行っているように思えたし、彼女にしてもそう考えていると感じていた。でも、こうして突然ぼくの前から消えたということはきっと、ぼくの方になにか問題があったのだ。そこに疑うべき部分はなかった。他人との関係性に関して、ぼくには非常に希薄というか、まるで興味を持たないといってもいいくらいの感覚があり、そのせいであまり誰かと深く関係を持つということがなかった。それでも何人の人間かはぼくという存在にどういうわけかひどく興味を持ってくれて、友達になったり恋人になったりした。彼女は特に果てしない藪を丁寧に擦り抜けるみたいにぼくの深い部分にまで接近してきたので、お互いに深い信頼関係の下、夫婦になったはずだった。ぼくらの生活は、ぼくの叔父が持っている古い日本家屋で始まった。叔父は少し障害があって、ホームの方で世話になっていた。とにかくどんなことでも溜めずに話し合おう、生活を始めるにあたってそれだけがぼくたちの数少ないルールのひとつだった。どんな小さなことでも解決するまできちんと言葉を交わしたし、そのたびにぼくらの中は穏やかなものになっていった、はずだった。それがまさか、四年目にしてこんなことが起こるなんて、それはとても馬鹿げていることだった。居なくなった、と気付いてまず最初にぼくがしたことは家探しだった、彼女の寝室(ぼくたちは寝室をそれぞれ別に持っていた)にも、リビングにも、彼女は何も残していかなかった。それでぼくはこれはマジなやつだと思って、何人かの共通の知り合いに連絡を取ってみた。誰一人彼女の居場所を知らなかった。あるいは、知っていてもぼくに教えようなんて考える人間は居なかった。自分が知っている限りの彼女の友達にも連絡を取ってみた。その結果分かったことは、ぼくはあまり彼らに好かれていなかったのだということだった。彼女たちの言葉の端々に、ぼくを嘲笑するような響きが隠れていた。おそらくはぼくの方に問題があるのだろう。思えば彼女たちが家に遊びに来たのは初めのうちの数回程度だった。ぼくの両親はすでに他界していたので、彼女の実家の方に連絡をしてみようかと思ったけれど、とりあえず少し様子を見てみることにした。ひととおり電話を終えてしまうと、それでもうすることを思いつかなかった。探しに出る?どこに?私物を全部持って近場をうろついているなんて思えなかった。空港や駅に電話をして、彼女が利用した形跡があるかどうか調べてみようかとも思ったが、そんな安手のドラマみたいな話に彼らが協力してくれるとも思えなかった。ぼくはとりあえず昼飯を食べながら今後のことを考えることにした。冷蔵庫にあるものを適当に刻んで、冷飯を使ってピラフを作って食べた。食べると眠くなったのでソファーで転寝をした。

 

夕方、玄関のベルの音で目が覚めた。ぼんやりした頭で出てみると、彼女が買ったものらしかった。ぼくは礼を言ってリビングに戻った。化粧水かなにかのようだった。一瞬、開けてみようかと考えたが、そんなことをしても彼女の居場所が書いてあるわけでもない。ひとまずそれは彼女が使っている化粧台の上に置いておいた。家を出て行こうというときに、ネットで買物などするだろうか?要するにこれは、彼女にとっても予期せぬ出来事だったということなのだろうか。ぼくは違う可能性について考えてみた。なにかしらの事件が起こった。誘拐や殺人。考えてみるだけでゾッとした。だけどすぐに、それは現実感がないと思った。家の中に荒らされた形跡は無いし、なにしろ彼女の持ち物があらかた無くなっているわけだから。それは自発的に行われた行為だと結論づけるのが妥当だった。ぼくは掃除をすることにした。掃除機を出して、家じゅうの床にかけた。それから雑巾を出して、フローリングの部分を拭いた。それが済んでしまうともう夕食の時間だった。ぼくはパスタを茹でて簡単な具を炒めて合わせた。どうでもいいテレビ番組を見ながら食べた。タレントたちはみんな無理をして笑っているように見えた。

 

三日目にぼくは、彼女の実家に電話をかけ、実はこういうことが起こっている、と告げた。彼女の母親は心底驚いたようで、それはつまりそこにも彼女は居ないのだということを意味していた。「警察に行こうか迷っているんです。」彼女の母親は、自分も心あたりに連絡してみるからそれは少し待ってくれ、と言った。わかりました、とぼくは答えて電話を切ろうとした、ごめんなさいね、と彼女の母親は言った、いえ、とぼくは答えて電話を切った。謝らなければいけないのは多分ぼくのほうなのだ。

 

ひと月が過ぎた。彼女の行方は依然として知れなかった、どこかで見かけたとか、実はわたしの家にずっと居るの、なんて話もまるでなかった。彼女はまるで荷物と一緒に完全にこの世界から消え失せたかのように思えた。警察にも顔を出してみたが、事件性が感じられない限り積極的に探してくれることはなさそうだった。子供ではないのだ。ぼくは仕事から帰るたびに空っぽの部屋を見てため息をついた。そして代り映えのしない食事を作っては一人で食べた。テレビはもうつける気がしなくて、CDをひたすら流していた。テレビ番組というのはある意味で、標準的な幸せのエッセンスなのだ。

 

 

三か月目の日曜の朝、ぼくの孤独は突然に終わった。小さな庭に出て洗濯物を干していると、どこかで木の枝がたくさん転がるような音がした。ぼくは音の聞こえてきた方を見た。数十年前、この家がリフォームされる前に使われていた風呂と便所のある小さな小屋があった。鍵が壊れていて開けることすら出来ない小屋だった。そんなものが庭に在ること自体ぼくは忘れていた。ひどい胸騒ぎがした。洗濯物を放り出してぼくはその小屋へと走った。小屋の木戸はなにかでこじ開けられていた。引き開けると嫌な音を立てて外側へと倒れた。中には、天井から吊るされたロープに引っかかって揺れている頭蓋骨と、床に散らばった白骨があった。念入りに磨いたみたいに真っ白だった。散らばった骨の後ろに、大小ふたつのスーツケースと、一足のパンプスと、倒れた椅子があった。ぼくは、膝から崩れるように地面に落ちた。いつまでかかってるのよ、と言わんばかりに、真っ白な骨に空いた真っ黒な眼窩がそっぽを向いた。ぼくは茫然と、彼女が消えてからの数ヶ月を思い返していた。

 

 

 

 

―なんてこった。

 

 

 

 

                       【了】


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