甲殻類が内耳を食い破る夜だから
獣のように丸まって時を凌いでいる
リンパ管を持ち上げながら千切ろうとしているのは
錆びた鋏のような赤茶けた概念だ
真夜中の青に染まっていく
真夜中の青に染まっていく
零れ落ちるめくら撃ちの言葉達の渦
うず高く積み上げられて即席の
即席の墓標なのだ
祈りを捧げようとしても神の種類が定まっていない
だから放っておいた、山中の廃れた祠のように
焦れた墓標はそこいらの
雑多な思念を集めて膨れ上がり…
天井の暗がりに張り付いているのは
致命的にパースの狂った人間のような何か
故障のような呼吸音を立てながら
考えているのかいないのか判らない様子で微動だにしない
そんなやつの背中のようなものを横目で眺めていると
どういうわけか郷愁のようなものに囚われる
俺の名を呼ぶまだ若いころの母親の声や
怖れしか抱くことのなかった父親の拳骨なんかを
そんな思いに囚われているうちに、ふと
天井に張り付いているこいつは
連絡がつかなくなった友達のうちの誰かなんじゃないかと
次第にそういう気がしてくる
久しぶりだな、と話しかけると
びくっ、と震えて
紙きれのようにすすっと天井の角に消えていった
俺の考えたことが正しかったのか
それとも、気付かれていないと思っていただけなのか
ともかくも天井は黙り込んでいた
迂闊な眠りに嵌りこんでいると
昼間見た青空のことを思い出すんだ
あれは海のすぐ近くを走る
寂れた薄汚い二車線の道路だった
膨れ上がった海みたいな青空
膨れ上がった海みたいな青空
ああ、甲殻類はこめかみに移動したようだ
衝撃で骨格が振動している
夢を見るよ、日常に重苦しいフィルターを掛けたような
どんなものとも言えない不安によく似たそんな夢を
屠殺をしくじられた牛か豚のように
梅雨の湿った寝床の上でのた打ち回りながら
あぁ、芳醇な青空
なぜに垣間見ることしか叶わないのだろう
かなぐり捨てる?のた打ち回る?蟲瓶の中に落ちて蝕まれているような気分、もはや悲鳴すら上げる気はなくなった、外界は妙に静かで、まるでこちらで誰かの気がふれるのを興味津々で待っているかのようだ、誰がおかしくなるんだって?誰がおかしくなるんだって?誰が?誰が?誰が?狂気の発芽なんていまに始まったことじゃない、生まれてこのかたずっと誰とも相容れない自分自身を感じてきたんだ、こんな種類の真夜中がお似合いなのさ、こんな種類の真夜中がとてもよくしっくりくるんだ、脳髄がとろけるような温度の中で、不意に降り始めた小さな雨の音に気付く、そういえばそんなことを天気予報が言っていたような気がする、今夜から明日にかけて雨が降るでしょう、ところにより雷雨となる可能性もありますと、ああ、そうか、今頃迂闊な誰かが雨に濡れているのだな、憐れんだりなんかしないよ、俺の人生にはいつだって雨が降っていたもの、俺の人生はいつだって濡れそぼって生温さに凍えていたようなものさ、判るかな、騒がせない温度は蝕んでいくんだ、釈然としない温度は…
不文律の深淵の中に気がつくとどっぷりと浸かっていて
そのせいかどうかは定かじゃないが呼吸がままならない
なぜこんなに簡単に乱雑に乱れてしまうのか
それともそうなってしまうからこそ歌えと誰かしらが叫ぶのか
歯軋りの日付変更線、窓に張り付くルビーのような虫を見た
常世の国なんてものがもしもあるのなら
その入口はあいつの翅の模様のどこかに違いない
「死せる魂の道程について何か話せることはあるか」
そう尋ねてみると
やつはぶぶ、と短く翅を鳴らした
窓に隔てられていることを忘れるなよと
そんな風に話しているみたいに思えた
ルビーのような虫は何度か足場を確かめたあと
尋ねるべきどこかを思い出したかのようにふっと飛び去ってしまった
そんなときの虫は記憶のようだと俺は思うのだ
朝は来ないのだ、俺が待っていたのは
自転も公転も関係のないものだった
軸の無い軌道に漕がれて迷い蛾になって
やがて俺の背にもルビーのような血生臭い翅が生えるだろう
甲殻類がとうとうどこかを食い破った、俺は叫び声を上げて……